4月28日(土曜日晴れ


25日、京都御苑から六孫王神社へ走る人

この日、歩きすぎて・・・・今足の裏・・・水ぶくれが・・・叫び

昼から仕事だったので、革靴・・・・地下鉄に乗ったら良かった叫び


【六孫王神社】

源経基を祭神とする。経基は清和天皇の第六皇子貞純親王の子であり、天皇の孫であることから「六孫王」と呼ばれた。嫡子で、六孫王神社を創建した源満仲清和源氏武士団を形成したことから、「清和源氏発祥の宮」を称している。

社地は、源経基の邸宅「八条亭」の跡地である。

多田神社兵庫県川西市)、壺井八幡宮大阪府羽曳野市)と共に「源氏三神社」の一つとされる。


源経基の事を書いてるので、2010年2月14日の記事を再掲載しますチョキ



清和天皇ー貞純親王ー経基王ー源満仲ー長男頼光・弟頼信ー頼義ー義光

 一般に武田氏は清和源氏と呼ばれているが、その清和源氏は上記が通説だったが、源頼光が1046年に石清水八幡宮へ納めた願文には「先人、新発(満仲)、その先経基、その先元平親王、その先陽成天皇、その先清和天皇」と系譜の部分で書かれ又、「曾祖陽成天皇は権現(応神天皇)の18代の孫なり。頼信は彼の天皇の四世の孫なり」と述べられている。『清和源氏』と呼ばれていた源氏は『陽成源氏』と呼ぶのが正しいが、陽成天皇の父は清和天皇であり、経基は二世賜姓ということも変わりなく『清和源氏』の呼称は適用されてもおかしくないと思う。明治の歴史学者星野恒氏は『清和源氏』にこだわった理由を次のように説明している。

「陽成天皇は粗暴な行動が多く、9歳で受禅したにもかかわらず、8年で帝位をおろされた不名誉な天皇であり、しかも頼信の曽祖父にあたる元平親王が誕生したのは父陽成天皇の遜位後のことである。その後胤と称するにははばかられるし、加えて、武家としての宿敵である平氏が桓武天皇という不世出の英主を祖としているのに対抗するうえでもあまりにも具合が悪い。このように主張したのは源頼朝である。」

 竹内理三氏は星野氏説を支持し、「むしろ陽成天皇の暴君としての強い力は兵の祖としてふさわしいと頼信は考えたのではあるまいか」と述べている。

 では「清和源氏」なのか「陽成源氏」なのかを年齢構成で迫ろうと思う。『尊卑分脈』を参考にして考えていきたい。


 清和天皇 850-880   陽成天皇 868-949

 貞純親王 873-916   元平親王 893-958

 源経基   921-961   源経基   921-961


年齢構成で考えるに、経基は貞純親王の死後に生まれている事から、元平親王の皇子とした方が自然である。


この日は八重桜が満開チョキ

四郎勝頼の京都祇園日記-六王孫神社8

四郎勝頼の京都祇園日記-六王孫神社6




四郎勝頼の京都祇園日記-六王孫神社4


四郎勝頼の京都祇園日記-六王孫神社9

四郎勝頼の京都祇園日記-六王孫神社5


四郎勝頼の京都祇園日記-六王孫神社

鬱金桜


橋の上、鬱金桜と八重桜が左右から覆いかぶさってたのに・・・

鬱金桜の方、枝が随分切られて八重桜のみ(iДi)マジデー・・・・叫び

ボリュームが無くなった・・・(w_-;

来年からは、メインで行く事無いなぁ・・・(T▽T;)エーッ

東寺のついでか、気が向いたら行くかぁ・・・

今まで、鬱金桜と八重桜のコラボ見に行ってたのに(*´Д`)=зアーア



四郎勝頼の京都祇園日記-六王孫神社2


四郎勝頼の京都祇園日記-六王孫神社7
藤が綺麗に咲いてたグッド!

本堂の前では牡丹が満開音譜



四郎勝頼の京都祇園日記-六王孫神社10
山吹も満開音譜

四郎勝頼の京都祇園日記-六王孫神社3
躑躅も満開音譜

四郎勝頼の京都祇園日記-六王孫神社11

石楠花も満開チョキ


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