1月30日(月曜日雪くもり


雪積もってるし(((゜д゜;)))寒


『寛政重修諸家譜』によれば、逸見光長ー基義ー惟義ー義重ー重氏ー重正ー義高ー義景ー義房ー義仲ー義治ー義兼ー義忠となる。


逸見義忠 (源太郎・上総介)

義兼の子。武蔵国秩父郡に移り、北条氏邦に属す。



逸見義久 1519-1554 (四郎左衛門)

義忠の子。北条氏邦に属し、1554年武蔵国広木合戦にて討死。



逸見義次 (子四郎左衛門)

義久の子。北条氏邦に属す。



逸見義助 1572-1624 (弥吉・左馬助)

義次の長子。徳川家康に仕え、大番を勤めて相模国大住郡のうち330石余を与えられる。1592年肥前国名護屋に従軍。1600年の関ヶ原役、1615年の大坂陣にも従軍した。のち大番組頭に進んだ。



逸見忠助 ?-1657 (勝兵衛・四郎左衛門)

義次の2子。1604年徳川秀忠に拝謁。のち大番となり相模・下総両国の内において500石を与えられる。1613年伏見城を守衛する。1615年の大坂陣に従軍、のち御具足奉行を勤めた。



逸見義記 1594-1658 (小四郎・市之丞・義幹)

義次の3子。1610年徳川秀忠に拝謁。のち大番となり、蔵米200俵を与えられる。大坂両陣に従軍し、のちに甲斐国八代郡の内で200石となる。1658年二条城の守衛中に死す。



逸見義重 1589-1639 (勘右衛門)

義助の長子。1607年徳川秀忠に拝謁。のち甲斐国八代郡の内で200石を与えられる。1614年大番となり、同年の大坂陣に従軍。後に徳川忠長に附属される。忠長自害後召し返される。



逸見義持 1591-1663 (左源太・左馬助・八左衛門)

義助の2子。1612年徳川秀忠に拝謁。1624年遺跡を継ぎ、のち大番となり、1633年上総国山邊郡のうち200石加増され530石となる。1640年組頭に進み、1651年蔵米200俵加えられた。



次ぎは溝口氏ですグッド!




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