1月23日(月曜日晴れ


復活第二弾どす舞妓はん



香宗我部時秀

秀頼の子。1345年家督を譲られた。香宗我部郷地頭職。


香宗我部秀能

時秀の子。香宗我部郷地頭職。この頃物部荘まで所領を拡大した。1369年細川頼之に上洛を促されたが、一族庶流は惣領の秀能の命に従わなかった為、上洛出来なかった。


西山氏秀

時秀の子。


香宗我部通秀

秀能の子。香宗我部郷地頭職。通秀は惣領として庶流を統制し、分家の西山氏と起請文を交わして一族の結束をはかった。


香宗我部益秀

通秀の子。香宗我部郷地頭職。


香宗我部直通

益秀の子。香宗我部郷地頭職。


香宗我部通長 1450-?

直通の子。長宗我部文兼と共に一条教房を都より土佐へ迎える為尽力した。1502年守護代細川勝益が没し、1507年管領細川政元が殺されると、細川氏の守護としての領国支配が終わり、土佐は戦国時代に突入したが、この時期の土佐国の有力な豪族について『長元物語』に、「土佐ノ国七郡、大名七人、御所一人ト申ハ一条殿一万六千貫、津野五千貫、大比良四千貫、吉良五千貫、本山五千貫、安喜五千貫、香宗我部四千貫、長宗我部三千貫、以上八人之内、一条殿ハ各別、残テ七人守護ト申ス」と記して有る。



香宗我部親秀 1471-?

通長長子。母は細川勝元の娘。1526年安芸備後守と戦い、嫡子秀義が戦死するなど大敗し、弟秀通を養子として家を継がせ、自らは剃髪して遷仙と号して兎田、新宮、中山田などを隠居料所として香宗城北屋敷に隠退した。しかし、長宗我部国親の勢力は香宗我部氏の勢力圏にくいいっており、東の安芸氏から圧迫を受け、家名を守るために国親の3子親泰を養子として迎える事とし、秀通に隠退を迫ったが断られた。そのため家臣に命じて秀通を殺させた。


香宗我部秀義 ?-1526

親秀長子。1526年安芸備後守と戦い戦死した。



香宗我部秀通 1510-1556 (孫十郎)

通長2子。妻は細川宗桃の娘。兄親秀の嫡子秀義が1526年に安芸氏との戦いで討死したため、兄の養子となった。しかし親秀が長宗我部国親と同盟を結ぼうとしたのに反対し、1556年10月暗殺された。



次ぎは香宗我部氏③ですグッド!


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