11月5日(土曜日)
先日、池坊550年際に招待されてhttp://ameblo.jp/katsuyori/entry-11065590160.html 池坊専好が千利休と交流があった事を初めて知り、作家鬼塚忠氏は【前田邸大砂物】を秀吉に対する挑戦・挑発であった、朋友であった利休の切腹を命じた秀吉に対する挑戦だ、として、「花いくさ」として12月26日に、角川書店から刊行されます。
しかし、この「花いくさ」は、秀吉が猿と呼ばれていたのが前提となってる。確かに
秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」と報告しているし、毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。
確かに猿顔だったのだろうが、〝猿〟と言うあだ名だったのだろうか
織田信長の秀吉妻ねねへの書状の中で秀吉を叱責する際に「あの禿げ鼠」と書かれているものが1つ現存している。もし、信長が秀吉の事を「禿げ鼠」と呼んでいたのが史実なら、【前田邸大砂物】は挑戦でなくなり、この物語は成り立たなくなる
織豊の専門家では無いので、家に有る文献では、ここまでしか判りません
文禄3(1594)年4月、前田利家邸に豊臣秀吉の御成りがあった際には、池坊専好(初代)が三之間に立てた大砂物の立花は、時代に応じた雄大なスケールを持ち、四間床(約7.2m)に懸けた四幅対の掛軸の猿猴20匹が、まるで松の枝に遊ぶかのように見えたといいます。
世に『池坊一代の出来物』と評されたという。ー「前田邸御成記」ー
猿絵と松、凄くバランスが良い・・・はたして秀吉に対しての挑戦だろうか