9月29日(木曜日晴れ

【吉川経家】

石見吉川経安の嫡男。式部少輔 1547-1581

1581年織田信長の命を受けた羽柴秀吉が因幡国まで侵攻した為、山名豊国は信長に降伏しようとしたため、家臣の森下道誉、中村春続に追放された。森下、中村の両氏は吉川元春に支援を求め、吉川一門の派遣を要請した。元春はこの要請を受け入れ、家臣の牛尾元貞を派遣するも、元貞が戦闘で負傷したため、吉川一門で名将の経家に鳥取城を守備するよう命令を下した。

同年2月、経家は鳥取城に入城する。鳥取城の守備兵は山名軍1,000人、毛利氏援軍が800人、近隣の籠城志願の農民兵が2,000人の4,000人だったと言う。経家はすぐに防衛線の構築に取り掛かり、籠城の準備を進めた。しかし、兵糧の蓄えがおおよそ平時城兵3か月分しか無いことを知り愕然とした。

6月、羽柴秀吉率いる2万の因幡侵攻軍が鳥取城を包囲。4ヶ月の籠城に耐えたが、10月、経家は森下道誉、中村春続と相談しここに至って城兵の助命を条件とし、降伏することとなった。秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉、中村春続だけでよく、吉川経家は帰還させるとの意思を伝えた。しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えなかった。困惑した秀吉は信長に「経家が自害してもよいか」との確認をとり、信長はそれに対し、経家の自害を許可している。10月25日、経家は自害した。


四郎勝頼の京都祇園日記-吉川経家像

吉川経家像


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