9月17日(土曜日晴れ


晴れてるやんビックリマークずっと雨が続くと思ってた・・・


大義寺の後は因幡一宮・宇倍神社へ車DASH!



【宇倍神社】

武内宿禰命を祀る。祭神は360余歳の長寿であったことから長寿の神として信仰され、また1899年全国の神社の中で初めて当社の拝殿が日本の紙幣の図案となり、その後も数度、社殿や祭神が紙幣の図案となったことから、金運・財宝の神としての信仰もある。

なお、『神祇志料』は『国造本紀』に載せる因幡国造の祖先、彦多都彦命を充てるが、、784年撰述の『因幡国伊福部臣古志』に載せる伊福部氏の祖先、武牟口命を充てる説もあり、武内宿禰命を祀るとあるのは後世の付会で、本来は伊福部氏の祖神を祀ったものとみられている。勝頼も武牟口命が祭神だったと思うグッド!


上述の通り伊福部氏がその祖神を祀ったものと思われるので、同氏の当地居住前後であると見られる。因みに『因幡国伊福部臣古志』には伊福部氏の第16世伊其和斯彦宿禰が成務天皇の御代に因幡国造になり、同天皇から賜った太刀等を神として祀ったとの記述があり、同書には当社に関する記載がないので、この記事を当社のことと仮定すれば、この時の創祀であるかもしれない。なお吉田家本『延喜式神名帳』に、仁徳天皇55年、360余歳の武内宿禰が因幡国に下降し、当社の鎮座地である宇倍山中腹の亀金山に双履を残して行方知れずとなったとの註があり、武内宿禰の終焉の地とされ、現在の本殿裏にも「双履石」と呼ばれる2つの石が残っているが、これは古墳の一部が露出したもので、武内宿禰に関する伝説は後世の付会であろうとされる。当地は古代からの遺跡も多く、また律令制下では因幡国の国府が置かれるなど、古くから因幡国の政治・文化の中心地であり、それにともなって当社も尊崇され、『延喜式神名帳』では因幡国唯一の名神大社に列し、因幡国一宮として崇敬を受けた。




四郎勝頼の京都祇園日記-宇倍神社


四郎勝頼の京都祇園日記-宇倍神社2


四郎勝頼の京都祇園日記-宇倍神社3

四郎勝頼の京都祇園日記-宇倍神社4


四郎勝頼の京都祇園日記-宇倍神社7

四郎勝頼の京都祇園日記-宇倍神社5


四郎勝頼の京都祇園日記-宇倍神社6
双履石(そうりせき)

靴を並べて姿を隠したって・・・自殺じゃあないのはてなマーク


お守りの表
四郎勝頼の京都祇園日記-宇倍神社2


お守りの裏
四郎勝頼の京都祇園日記-宇倍神社

朱印
四郎勝頼の京都祇園日記-朱印

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