4月28日(木曜日雨


武田信義館跡周辺には「お屋敷」・「お旗部屋」・「神酒部屋」・「お庭」・「的場」・「お堀」・「金精水」・「具足沢」などの地名も伝えられている


武田信義を再掲載しますチョキ2008年7月21日の記事ですグッド!


武田信義(武田太郎・竜光丸) 1142-1200

逸見清光の2子。母は手越遊女。手越は今の静岡市。『卜部本武田系図』には池田遊女とあるが、手越と池田の距離はそう離れてはなく、同一場所での表現の違いと考えられる。

『卜部本武田系図』には1128年8月15日生まれとある。『願成寺記』によれば、13歳の時に源為義を烏帽子親として元服している。

1180年の以仁王の平家追討の令旨に応じ挙兵、甲斐源氏独自の判断で同年8月波志太山で俣野景久、駿河目代橘遠茂等を撃破。8月28日付けの新田義重が平清盛に宛てた書状では「義朝の子は伊豆国を領し武田太郎は甲斐国を領す」と全く同等に扱われている。9月には一条忠頼等と信濃の平家方の管冠者を大田切郷城で自害させ、10月には武田信義、一条忠頼、板垣兼信、武田有義、安田義定、逸見光長等の軍は富士川で平惟盛軍を敗走させ、そのまま駿河、遠江を制圧した。

1183年、源頼朝に与えられた宣旨により、信義及び甲斐源氏は完全に頼朝政権に吸収されてしまった。1184年1月源範頼に従い子忠頼、兼信、信光と共に入京、勢多、宇治で木曽義仲軍と戦い、これを破り義仲を敗死させた。2月、一の谷合戦にも参戦。

最近の研究では信義自殺説が有力になっている。『吾妻鏡』の1186年(文治2年)3月9日条の「九日丁亥、武田信義卒去(年五十九)」とあり、そのまま生没年を確証していたが、1190年11月8日の記事に「武田太郎信義(最末一騎)」と頼朝が上洛して院の六条殿御所に参じたときの随兵に名が見えている。また1194年6月28日に東大寺の四天王像の一つ持国天の造立を命じられており、同年11月21日にも鎌倉の御霊前浜での小笠懸の射手の1人に見える。この事については五味文彦氏が『甲斐国と武田氏』の中で正治2年と文治2年を誤ったのでは無いかと考えておられる。そうなると生没年は康治元(1142)年生まれで正治2(1200)年没となる。

菩提寺は鳳凰山願成寺。


四郎勝頼の京都祇園日記-武田信義

四郎勝頼の京都祇園日記-武田信義2


28年前に来た時は、柵も周りの家も無く、草花が咲いている所だったような汗

狭くなってる汗


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