5月2日(月曜日晴れ


韮崎市の王仁塚の1本桜を見た後は、再び甲府市に戻り武田神社(武田氏館跡)へ車DASH!

28年ぶりぃ~チョキ


【武田神社】

躑躅ヶ崎館の跡地(武田氏館跡)に建てられており、武田信玄を祭神とする。

大正4(1915)年、大正天皇の即位記念に武田信玄に従三位が追贈されたのを契機に、「武田神社奉建会」が設立され、大正8(1919)年には社殿が竣工し、信玄の命日にあたる4月12日には初の例祭が行われた。


【躑躅ヶ崎館】

武田信昌時代に居館を甲府盆地東部の石和から川田へ移転して家臣団を集住させ、笛吹川を挟んだ商業地域と分離した城下町を形成していた。

16世紀初頭、有力国人層を制圧して甲斐統一を進めていた信虎(信昌の孫)は、1永正16(1519)年に盆地中央に近い相川扇状地への居館構築をはじめ、有力家臣らを府中に住まわせている。『高白斎記』や『勝山記』には「新府中」や「甲斐府中」と記されており、居館移転は地鎮祭から4か月あまりで、居館も未完成な状態だったという。信虎は室町幕府の将軍足利義晴と通じ、甲府の都市計画も京都の条坊を基本にしていることが指摘されるが、発掘調査によれば、当初の居館は将軍邸である花の御所(室町第)と同様の方形居館であり、建物配置や名称にも将軍邸の影響が見られる。また、同時に裏山に要害山城を築き守りを固めた。

信虎時代には甲斐国内の有力国人が武田氏に帰服しているが、躑躅ヶ崎館の建設後は有力国人も同様に本拠の要地移転を実施しており、郡内地方を治める小山田氏は中津森から谷村へ、河内地方の穴山氏は南部から下山へと移転している。

晴信(信玄)時代の武田氏は大きく所領を拡大させ、信濃駿河、西上野遠江などを勢力下に収めるが、本拠地は一貫して要害山城を含む躑躅ヶ崎館であった。

勝頼期には天正3(1575)年の長篠の戦いでの敗戦により領国支配に動揺が生じ、勝頼は領国体制の立て直しのため府中移転を企図し、家臣団の反対もあったが新たに新府城を築き、天正10(1582)年には躑躅ヶ崎館から移転している。しかし、まもなく実施された織田信長武田征伐の結果、武田氏は滅亡する。


築城当時は、土塁と空堀をめぐらした方形の主郭のみで、信玄の代に、西曲輪・北曲輪などが拡張されて連郭式の縄張となった。館の東側と西側を流れる川を天然の堀とし、三方を山に囲まれた天険の地であり、背後2、5Kmには詰の城である要害城を擁して、甲府盆地一帯を要塞化した。
館は、一辺が約200mの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、その回りのいくつかの副郭とによって構成された平城形式となっている。館の回りには、家臣の屋敷が建てられ、南方一帯には格子状に整備された道路に沿って、城下町が開けていた。

天正10(1582)年に武田氏が滅ぶと、徳川家康が治めるところとなり、曲輪の新設や、今に残る天守台が修築された。現在は武田神社となっており、堀・土塁・曲輪などの遺構が残っている。

【甲斐武田氏】  2009年5月18日の記事を再掲載

清和源氏源義光の2子義清が常陸国那珂郡武田郷に住み武田氏を称した。のち義清は子清光と共に甲斐国市河庄に配流された。清光は巨摩郡逸見郷に住し、逸見氏を称した。

清光の子信義が巨摩郡武田郷に住み武田氏を称し、甲斐源氏の嫡流となった。『角川日本姓子歴史人物大辞典』では、「信義が武田氏を名乗るのは武川庄武田郷という地名によるとするが、この時期に武田郷という地名の存在は確認できない。義清・清光が常陸で名乗っていた武田氏を継承させたものとも考えられる。」とあり、又『日本歴史地名体系・山梨県の地名』では「武田の地は、釜無川上流、駒ケ岳の山麓地帯にあり、かっての官牧真衣野牧に近接した地域である。武田の地名の由来については、地形を表す高田が変化したものであるとか、日本武尊の王子武田王が当地に居住したことから地名として定着したなどといわれている。」と説いている。

信義の子信光以降、石和流と信時流と分かれ、甲斐国の守護家は石和流が、安芸国の守護家は信時流が嗣いだ。石和流政義戦死後信時流の信武が安芸、甲斐の守護家となり信武の子孫が守護職を世襲した。


四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社13

四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社9

四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社10


四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社11


28年前にも居たけど、世代が違うよなぁ(゚_゚i)汗
四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社19

何かしら長篠鉄砲隊が来てた

敵の襲来や~叫び
四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社18

四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社6

四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社7

四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社8

四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社4

四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社5


武田水琴窟
土中に底に小さな穴をあけた甕(かめ)を埋め、そこにわずかな水を流す。水はその穴から水滴となって落ち、甕の中で反響し、琴の音にも似た澄んだ音色を地中に響かせる。一つの音文化の極致である。
江戸期、文化文政の時代に庭師によって考案されたこの技術は、茶室のつくばいや庭先の手水鉢に設けられ、数奇者たちに愛でられた。
昨今は「癒し」の音として注目を集めている。

水琴窟、庭に欲しいぃ~チョキ

四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社

四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社2



名水『姫の井戸』
茶釜などが発見されたため「茶の湯の井戸」ともよばれる。館内の生活の中心にあり、信玄息女の産湯にも使用されたという。

四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社3


四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社15


四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社16

四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社17

四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社12


四郎勝頼の京都祇園日記-武田神社14

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