4月28日(木曜日くもり


【新府城址】

武田勝頼が築城し、甲斐武田氏の城郭技術の集大成と評価される崖端城。

七里岩の要害に真田昌幸が普請し、甲府の府中に対して「新府」と呼ばれた。

石垣は使われない平山城で、本曲輪・二の曲輪・東の三の曲輪・西の三の曲輪・帯曲輪などにより構成され、丸馬出し・三日月堀・枡形虎口などの防御施設を持つ。ちなみに本曲輪・二の曲輪は躑躅ヶ崎館の本曲輪・西の曲輪に相当し、規模も同程度であることから政庁機能を持つ施設と考えられる。近年発掘作業や間伐など整備がなされ、甲州流築城術の特徴である丸馬出しや三日月堀、特徴的な鉄砲出構、その他土塁や堀跡、井戸や排水施設などの遺構が確認できるようになった。また、陶磁器類も出土している。

勝頼期の武田家の築城の特徴として、台地の突端部(側面・背後は断崖や川)を利用し戦闘正面を限定させ、なおかつ正面からの敵の圧力を側方に流すような構造が挙げられる。具体的には、正面の丸馬出しより城側面に続く比較的深い堀を敵兵に歩かせる。横矢を掛け敵兵を攻撃すると、堀は断崖・川へと続いており、こちらへ追い落とすことにより敵兵を無力化できる。同様な構造の代表的な城に遠江では諏訪原城小山城信濃では大島城がある。ただし、新府城の場合は現在遺構とされる城跡ではなく、能見城を中心とする新府城北方の防塁跡にこの構造が見られ、上に挙げた城に比べその規模の大きさは群を抜く。また能見城防塁は複雑に屈曲し、最大限横矢を掛けられるような構造となっており防塁が多数配置されている。

このような大規模な構造から、少なくとも数千から万単位の兵力による運用が前提となるようである。

新府城北側に2箇所ある鉄砲出構は江戸時代に築かれた洋式城郭である五稜郭の設計思想と同様の、突出部分の敵と当たる面積を抑えつつ突出部及び出構間に強力な火力を投射するためのものであると考えられる。

使用された期間は短いが、七里岩突端部の南北7-8キロメートル、東西2キロメートルという周辺の自然地形全体が軍事的意味をもっていたことを考慮に入れれば非常に大規模な城であり、武田家を代表する甲州流築城術の集大成となる城である。


武田勝頼については、http://ameblo.jp/katsuyori/entry-10439003722.html に詳しく書いてますチョキ


四郎勝頼の京都祇園日記-新府城址

四郎勝頼の京都祇園日記-新府城址2


四郎勝頼の京都祇園日記-新府城址5

四郎勝頼の京都祇園日記-新府城址4
武田勝頼霊社碑


四郎勝頼の京都祇園日記-新府城址8
本丸跡で咲く桜



四郎勝頼の京都祇園日記-新府城址7
本丸跡


四郎勝頼の京都祇園日記-新府城址6

四郎勝頼の京都祇園日記-新府城址3

縄張り絵図



四郎勝頼の京都祇園日記-新府城址9


四郎勝頼の京都祇園日記-新府城址12

四郎勝頼の京都祇園日記-新府城址11

四郎勝頼の京都祇園日記-新府城址10
こう言う中世の城跡に行くと元気になり、一人でほいほい歩きまわるチョキ


この日の夜に行ったキャバクラで、「新府城行ったの!?あそこ山梨最強のホラースポットだよ!!」と言われ・・・・・叫びキャー  キャバクラ行ったんやσ(^_^;)ポリポリ

連れが、「本丸跡で勝頼さんが、鍵のこすれる音、甲冑着て歩いてるみたいやんビックリマークって言ったでしょはてなマークその時僕の後からも聞こえてたんです」って言いだして叫び

「そこ行くの~はてなマークって思ってる所、勝頼さん嬉しそうに先先行くんやもん」

(((( ;°Д°))))ブルそんなん言わんといてぇ~ドクロ


名前、四郎勝頼やでビックリマーク甲斐国では守られてる!!と、思いたい(゚_゚i)汗



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