4月12日(火曜日)
報恩院の次は三宝院へ
開門前で少し並んだよ
【三宝院】
三宝院は永久3(1115)年、醍醐寺第14代座主勝覚が開いたもので、歴代の座主を輩出し、応永35(1428)年以降は三宝院主が醍醐寺座主の地位を独占した。しかし醍醐寺は応仁元(1467)年に始まった応仁の乱の兵火に巻き込まれ、三宝院を含む多くの建物が焼失し、一帯は荒廃してしまう。
荒廃した醍醐寺を復興したのが、天正4(1576)年に第80代座主の地位に就いた義演であった。義演は豊臣秀吉の手厚い庇護を受け、慶長3(1598)年の醍醐の花見を醍醐寺の金剛輪院を中心として執り行った。また、金剛輪院に「三宝院」の名称を受け継がせた。これが今日に伝わる三宝院である。
三宝院庭園は、この醍醐の花見に際して、豊臣秀吉が自らが基本設計を行ったものである。作庭は醍醐の花見が終わった4月から始められ、その年の8月に秀吉が死去した後は義演の指導のもとで続けられた。義演は秀吉の基本設計をもとにさらに構想を発展させ、また当時一流の庭師を作庭に参画させた。庭師の中には「天下一の石組の名手」と称された賢庭もいた。作庭は義演が亡くなる元和10(1624)年までの27年間にわたった。
慶長3(1598)年義演の日記によると、豊臣秀吉が、「醍醐の花見」のために畿内4ヶ国から桜の木を700本を集めたと記されている。境内には、桜の苗場跡もある。
「土牛の桜」(推定樹齢150年)と傍らにある桜の木(推定樹齢100年)は、兄弟関係。霊宝館周辺と清瀧宮にある3本も兄弟関係にあることが判明してる。
色々な場所から集められた桜を使って、枝を台木に接ぐ「接ぎ木」や、種子から育成された可能性が高いといわれている。