11月9日(火曜日晴れ


ようやく2日目ですごちそうさまパチごちそうさまパチごちそうさまパチ

この日は朝から雨

二人のエロオヤジの日頃の行いが悪い!?

いやいや、さとる氏一人が悪いのかと!?

昨夜、触りすぎだよ~(゚_゚i)汗


朝から研究対象の甲斐武田氏発祥地へF1-BDASH!


甲斐武田氏

清和源氏源義光の2子義清が常陸国那珂郡武田郷に住み武田氏を称した。のち義清は子清光と共に甲斐国市河庄に配流された。清光は巨摩郡逸見郷に住し、逸見氏を称した。

清光の子信義が巨摩郡武田郷に住み武田氏を称し、甲斐源氏の嫡流となった。『角川日本姓子歴史人物大辞典』では、「信義が武田氏を名乗るのは武川庄武田郷という地名によるとするが、この時期に武田郷という地名の存在は確認できない。義清・清光が常陸で名乗っていた武田氏を継承させたものとも考えられる。」とあり、又『日本歴史地名体系・山梨県の地名』では「武田の地は、釜無川上流、駒ケ岳の山麓地帯にあり、かっての官牧真衣野牧に近接した地域である。武田の地名の由来については、地形を表す高田が変化したものであるとか、日本武尊の王子武田王が当地に居住したことから地名として定着したなどといわれている。」と説いている。

信義の子信光以降、石和流と信時流と分かれ、甲斐国の守護家は石和流が、安芸国の守護家は信時流が嗣いだ。石和流政義戦死後信時流の信武が安芸、甲斐の守護家となり信武の子孫が守護職を世襲した。2009年5月18日のブログより抜粋


『角川日本姓子歴史人物大辞典』説では、常陸で名乗ってた武田氏を甲斐に移ってからも継承させただけど、『日本歴史地名体系・山梨県の地名』説では、信義が同じ武田郷に住み、又武田氏を称した事になる。

実際は、武田義清(常陸武田郷)ー逸見清光(甲斐逸見郷)ー武田信義(甲斐武田郷)となり、常陸武田氏の継承は認められない。


四郎勝頼の京都祇園日記-武田氏館跡

四郎勝頼の京都祇園日記-武田氏館跡2

で、武田氏館ですチョキ館跡では無いです(゚_゚i)汗

武田氏の遺構はまったく無いです・・・義清一代だけですから・・・文献上だけでの確証ですね。

受付のおじさん、「甲斐の武田氏との関係知ってますかはてなマーク」と聞いて、「知らないビックリマーク

と答えた来訪者にはニコニコべったりで、説明してたけど、勝頼みたいに「知ってる」と答えると、冷たい態度・・・・汗

四郎勝頼の京都祇園日記-武田氏館跡3

館の特色(パンフレットより抜粋)

鎌倉時代の地方豪族(武士)の館を参考にした主殿造りです。

当時の主屋内部は、柱だけで間切りはありません。必要に応じて几帳(室内の仕切りに立てた道具)や衝立などで仕切って使用しました。

主屋には主人と家族が住み、入口の中門には宿直(宿泊して警戒をすること)の武士が控えました。

主屋の屋根は、本来わら葺きですが、防火のため、わら葺き風銅板葺きにしました。

館は当時の単位で1間が7尺(約2.1m、一部8尺)間隔で柱を建てました。

四郎勝頼の京都祇園日記-武田氏館跡4

四郎勝頼の京都祇園日記-武田氏館跡5

主な展示資料(パンフレットより抜粋)

■甲斐武田氏発祥の地についての資料

 ・武田氏系図 ・長秋記 ・尊卑文脈等パネル ・義清、清光の武者人形

■甲冑などの武器、武具類 

 ・鎧(盾無鎧をイメージしたもの) ・弓 ・刀 

■武田地区の歴史資料

 ・武田遺跡群の発掘調査出土資料 ・浮世絵

四郎勝頼の京都祇園日記-武田氏館跡6

義清、清光の武者人形

四郎勝頼の京都祇園日記-武田氏館跡7
武田義清(音光丸・刑部三郎・武田冠者)1075?ー1149?

源義光の2子。母は常陸国住人鹿島清幹の女。1075年4月16日近江国志賀御所で生まれた。常陸国那珂郡武田郷に住み、武田冠者と称した。

1127年頃には吉田神社、鹿島神社領まで侵して常陸の豪族吉田氏をはじめ土着豪族から恐れられ、ついには1130年12月朝廷に訴えられたのである。『長秋記』に「常陸国武田郷主武田冠者義清の子清光濫行の廉により常陸国司に告発され、次いで父義清とともに甲斐国に配流された」とある。甲斐国には頼信、頼義、義光以来の旧領が有り、難なく甲斐へ入国できた。のちに隣接地の青島荘の下司職を命じられて勢力を盛り返し、市河の平塩の丘に館を構えた。

若神子正覚寺の位牌は1145年死没としており、4年の違いがある。1127年父義光の菩提を弔うために正覚寺を建立したという。しかし1127年はまだ常陸の豪族から恐れられていた時期なのだが・・・?。

『小笠原系図』には1082年4月16日に近江国志賀御所で生まれたとある。

2008年10月14日のブログから抜粋



四郎勝頼の京都祇園日記-武田氏館跡8

逸見清光(逸見冠者・上総介) 1110ー1168

武田義清の長子。母は上野介源兼宗の女。『長秋記』の1130年12月30日条に「常陸国司申す、住人清光濫行の事」とあり、この事件により父子共に甲斐国へ配流されたと推察される。谷戸城を根拠としたという。

1110年6月9日常陸国武田郷で生まれた。甲斐国逸見庄に住し逸見冠者といった。逸見庄は塩川の上流、八ヶ岳山麓地帯であり、官牧柏前牧に接して私牧もあり、兵を養うには全く格好の地であった。しかも信濃の佐久や諏訪方面に通ずる交通上の要衝でもあった。市河庄と同じく摂関家の荘園となっていたので、父義清は早くからここへ勢力を伸ばし、清光を庄司としてこの地を押さえさせていたものであろう。北巨摩郡長坂町の陽朝山清光寺(1151年建立)は彼の開基であり、その墓所でもある。     2008年10月6日のブログから抜粋




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