11月4日(木曜日晴れ


初日最後は小田城址F1-BDASH!

もう暗くなり、携帯での撮影はギリギリ(゚_゚i)汗


四郎勝頼の京都祇園日記-小田城址


国指定史跡小田城

小田城は、鎌倉期から戦国期まで小田氏の居城であり、その始まりは小田氏の祖八田知家が1185年に常陸守護に任命されて当地に移って居館を構えたことによると伝わる。

その後、南北朝期には、当主小田治久が南朝方に属し、小田城は常陸南部における南朝方の拠点となり、北畠親房や春日顕国なども入城している。北畠親房が小田城で神皇正統記を執筆したことは特に名高い。

下って戦国時代の弘治・永禄年間(1555-69年)、小田氏治は佐竹氏・多賀谷氏・真壁氏や越後の上杉謙信、小田原の後北条氏らと抗争を繰り返した。後北条氏と結んだ小田氏治は、1569年の手這坂の戦いに敗れ、小田城は佐竹氏のものとなり、翌1570年に太田資正が城主になり、1572年に資正の子の梶原政景が城主になった。のち、佐竹氏の一族小場義宗が城主になったが、1602年に佐竹氏の秋田移封に伴って廃城になった。

遺構は曲輪、土塁、櫓台跡、水堀跡グッド!


四郎勝頼の京都祇園日記-小田城址2

常陸小田氏

小田氏は源頼朝に従って功績を挙げ、常陸守護に任じられた八田知家(宇都宮宗綱の子)が祖という。知家の子の八田知重が小田氏を称した。

南北朝期には南朝方の一翼として活動し、室町期には鎌倉府により関東八屋形に列せられ、関東の支配体制の一翼を担った。しかしその後は佐竹氏ら周辺諸氏に圧迫され、戦国期に入ると、小田氏の力は大きく衰退し、常陸の南部をかろうじて支配する小大名にまで成り下がっていた。16世紀前半、小田政治が現われて結城氏や古河公方などと争い、所領を一時拡大し、最盛期を迎えたが、政治の子氏治は北から佐竹氏、南から後北条氏という二大勢力に領土を侵食され、上杉謙信や佐竹義重などに時に臣従し、時に翻弄されながら、領土の侵食・奪還を繰り返していた。

1569年氏治は佐竹氏の侵攻を受けて居城小田城を失い、1583年には佐竹氏に完全に臣従した。そして1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣ぜずに所領奪還の戦を行っていたことを理由に所領は没収され、結城氏と佐竹氏に分割されてしまう。氏治は秀吉に臣従を願うが叶えられず、その後は娘が側室となっていた結城秀康の客分となり、嫡子守治とともに越前へ下向したという。人質として後北条氏に仕えていた庶長子友治は小田原落城後、秀吉に仕え、先祖の「八田」姓に改称し、朝鮮出兵などで活躍するが、豊臣秀次に連座して改易。その後はやはり結城秀康を頼ったとされる。その子義治は豊臣秀頼に仕え、大坂陣に参戦した後、福島正則に客将として招かれ、広島にて死去した。


さとるの今日も二日酔い-200903211454000.jpg


昼間の写真を、さとる氏のブログから拝借しましたチョキ



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