11月3日(水曜日祝日晴れ


土浦城址の後は、平将門ゆかりの地を案内してもらったグッド!


平将門

高望王三男、鎮守府将軍平良将の子。下総、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国衙を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷に対抗して独自に天皇に即位して『新皇』を自称した事によって、遂には朝敵となる。しかし即位後わずか2ヶ月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された(承平天慶の乱)

平将門の生年は9世紀終わり頃から10世紀初めとされるが、正確な生年は不詳である。一説には討ち取られた年齢が38歳(満37歳)とされる事から、903年とする説が有力(赤城宗徳 平将門)。



四郎勝頼の京都祇園日記-豊田
将門本拠地の豊田に建つ豊田城∑ヾ( ̄0 ̄;ノエエッ何ちゅう建物やビックリマーク

この建物は、地域交流センターと言い別称を「豊田城」と言うらしい。平安時代末期から戦国時代までこの地方を支配した垣武平氏豊田氏が、東部に流れる小貝川べりに城を築き、豊田城と呼ばれていたために命名されたものだそうな(゚_゚i)汗
当時は、このような天守閣(高さ48.5m)ではなく、カヤ葺きで小貝川の水を要塞としたものだったんだろうね。姫路城の模擬天守閣みたいσ(^_^;)ポリポリ


豊田氏を前面に出すなら、史実に忠実な建物を造ってもらいたいビックリマーク無駄使いの典型ですなぁ・・・呆れて登城する気も無いし、城跡巡りの数にも入れないですパンチ!爆弾

本当の豊田城址はてなマーク館跡はてなマークは小貝川の河川敷下になってるそうです( ̄∩ ̄#




四郎勝頼の京都祇園日記-豊田2

意味の無い建物やな( ̄へ  ̄ 凸ケッ


豊田氏

将門滅亡後、常陸国は平貞盛と藤原秀郷の領地となったが、貞盛は伊勢国に遷り、伊勢平氏の祖となった。
豊田辺りは、貞盛の弟繁盛の支配する処となり、四代後の常陸大掾平重幹の3子政幹が赤須四郎と名乗り下総豊田郷に住した。

前九年の役ににおいて、源頼義・義家父子は陸奥の安倍頼時追討の命を受けて北上する。赤須四郎は、豊田郷兵を率いてその軍列に加わり、阿武隈川一番乗りをはじめ、衣川の戦い等に数々の功をあげた。
役後、戦功によって後冷泉天皇より鎮守府副将軍に任ぜられ、神旗(蟠龍旗)と豊田・岡田・猿島の三郡を下賜された。これにより名を豊田四郎将基と改め、若宮戸に居を構えた。以来20代520余年の長い間、中世・戦国時代にかけて、この地は豊田氏の本拠地となった。
戦国時代には、下妻多賀谷氏との攻防が激しく、1575年多賀谷氏に滅ぼされた。


次に将門を祭る国王神社へF1-BDASH!
四郎勝頼の京都祇園日記-国王神社5

四郎勝頼の京都祇園日記-国王神社6

四郎勝頼の京都祇園日記-国王神社4
社伝によると、平将門の戦死の際、難を逃れ奥州恵日寺付近に庵を結び出家し隠棲していた将門の三女如蔵尼が、将門の33回忌にあたる972年に この地に戻り、付近の山林にて霊木を得て、将門の像を刻み、祠を建て安置し祀ったのがはじまりとされる。


四郎勝頼の京都祇園日記-国王神社

四郎勝頼の京都祇園日記-国王神社2

四郎勝頼の京都祇園日記-国王神社3


朝敵だったせいか、英雄のわりにはひっそりとしてる・・・


中世、将門塚(平将門を葬った墳墓)の周辺で天変地異が頻繁に起こることがあり、これを将門の祟りと恐れた当時の民衆を静めるため、時宗の遊行僧・真教によって神と祀られ、1309年には神田明神に合祀されることとなった。

神田明神は戦国時代の太田道灌、北条氏綱等の武将が武運祈願のため崇敬するところとなり、さらに関ヶ原の戦いの際には徳川家康戦勝祈祷を行った。このようなことから、江戸時代には江戸幕府により、平将門を祭る神田明神は江戸総鎮守として重視された。

また、将門の朝敵としての認識は江戸幕府三代将軍家光の時代に、勅使として江戸に下向した烏丸大納言光広が幕府より将門の事績について聞かされ、「将門は朝敵に非ず」との奏上により除かれた。

なお、神田明神は幕府によって江戸城の鬼門にあたる現在地に遷座されたと言われる。これは、徳川氏が朝廷に反逆した将門を将軍居城の鬼門に据えることにより、幕政に朝廷を関与させない決意の現われだという。

神田明神の「かんだ」は、首を斬られて殺された将門の胴体、つまり「からだ」が変化したものという説もあるし、坂東市内の胴塚周辺の地名は「神田山(かどやま)」である。

明治維新後は、将門は朝廷に戈を向けた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われた。そして1874年には、教部省の指示により神田明神の祭神から外され、将門神社に遷座されてしまう。一方で明治時代後期になると将門復権運動が行われた。

第二次世界大戦終結後は、朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新皇に即位して新たな時代を切り開いた英雄として扱われることが多くなった。そして、1976年には将門を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映されるに及んで、将門の祭神復帰への機運が高まり、ついに1984年になって、平将門神は再度、神田明神に合祀されている。

このように将門の評価は、古代の朝敵から、中世の崇敬対象へ、さらに明治時代の逆賊視、ついで戦後の英雄化と激しく揺れ動いた。


しかし・・・恐るべきは歴史小説家達ビックリマーク

海音寺潮五郎は平将門を英雄にし、司馬遼太郎は坂本龍馬を英雄にしたグッド!


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