11月2日(火曜日くもり


かつ丼でお腹いっぱいになって( ̄▽ ̄)=3フー、隣の土浦城址を訪ねたチョキ


土浦城址

室町期に築かれ、江戸時代に段階的に増改築されて形を整えた。幅の広い二重の堀で守る平城である。天守は作られなかった。太鼓櫓門が現存し、東西二か所の櫓が復元されている。土浦は度々水害に遭っているが、その際にも水没することがなく、水に浮かぶ亀の甲羅のように見えたことから亀城(きじょう)の異名を持つ。

天慶年間(938~947年)に平将門が砦を築いたという伝説があるが、文献上確かなのは永享年間(1429~1441年)に常陸守護八田知家の後裔、小田氏に属する若泉(今泉)三郎が築城したのが最初である。

関東に入った徳川家康は、土浦を次男の結城秀康に与え、土浦城を領内の支城とする。秀康が越前国北ノ庄に移ると、藤井松平家の松平信一が3万5千石で入封。その後松平信吉の代に5千石の加増を受ける。この信一と子信吉が、現在の城のおよその形を作ったと考えられている。1617年、信吉が上野国高崎に転封となって西尾忠永が2万石で入封。以後、城主は西尾氏・朽木氏と代わり、1669年土屋数直が4万5千石で入封。土屋氏は、1682年子の政直のとき1682年駿河国田中に移ったが、代わって城主となった大河内松平家の松平信興が5年後の1687年に大坂城代に転ずると、土屋政直が再び6万5千石で入封。その後三度の加増を受けて9万5千石となり、常陸国では水戸藩に次いで大きな領地を支配し、以後土屋氏が11代、約200年間世襲して明治維新に至った。

1986年の発掘調査で、戦国時代に本丸で大きな火災があったことが判明した。対応する文献が発見されていないので時期や原因を知ることは今のところできない。


遺構は曲輪、土塁、水堀、櫓門、高麗門2基、復原櫓2基


四郎勝頼の京都祇園日記-土浦城址12

本丸跡


四郎勝頼の京都祇園日記-土浦城址
慶安年間(1648-52年)、朽木氏の時代に作られたという本丸櫓門、別名太鼓門

約30年ぶりのご対面チョキ


四郎勝頼の京都祇園日記-土浦城址3


四郎勝頼の京都祇園日記-土浦城址10

四郎勝頼の京都祇園日記-土浦城址11


四郎勝頼の京都祇園日記-土浦城址9

復原の西隅櫓。昭和二十五年の台風で破損、解体保存されていたものを平成に入ってから復原したもの。半分、現存遺構と言う感じかな。


四郎勝頼の京都祇園日記-土浦城址8
水堀



四郎勝頼の京都祇園日記-土浦城址7

四郎勝頼の京都祇園日記-土浦城址6



夏の花、芙蓉がまだ咲いていた(゚_゚i)汗
四郎勝頼の京都祇園日記-土浦城址5


四郎勝頼の京都祇園日記-土浦城址4

四郎勝頼の京都祇園日記-土浦城址2

晴れてたら土塁の上に登ったり、城跡を1周して楽しむけど、雨でドロドロなので諦めたよんチョキ

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