2月18日(金曜日雨晴れ


出張中の為、久し振りに歴史ですチョキ



陸奥武田氏


武田忠直(彦十郎)

忠直は、甲斐武田氏を本姓としているが、系図的には不明。1502年小国館を築き、この地に住みし小国氏の祖となった。忠直は小国村を領し、大円寺を中興し、祈願所として善行院を再興した。

小国氏は天正年間(1573-92)江繋氏に滅ぼされたという。


武田彦三郎

南部信直に属す。九戸合戦後、二戸郡金田一村を与えられ金田一氏を称した。

『姓氏家系辞書』に南部氏庶流四戸氏族とある。甲斐の油川信友(1561年信濃川中島で戦死)の初名が彦三郎で、金田一氏の祖と言われているので、或いは信友の子か。



越前武田氏


武田宗長

四戸宗春の子。竹内藤右衛門の船に乗り、越前の新保に住み武田氏を称した。



会津武田氏


武田信玄が亡くなった翌年(1574年)、武田氏と親交があった会津の蘆名氏に協力を求めるため、武田氏から蘆名氏に武田国継が信玄の遺書を持って遣わされた。しかし、織田信長によって武田氏が滅ぼされてしまい、武田氏の血脈を残すために国継はそのまま会津に留まり、信長による武田の残党狩りを逃れるために、三浦平八郎盛重と名乗り蘆名氏に仕えた。この地で国継は会津西光寺を建立している。その後国継は蒲生氏、加藤氏、保科氏に仕えたという。

1574年、この時期に蘆名氏に協力を求める内容は、上杉謙信の牽制しか考えにくいが、それにしても1582年まで会津に留まる理由も解らないし、会津に留まってるのに、信長の武田残党狩りに怯えるのも変である。

それに、武田国継と言う人物は資料には一切出て来ない。そんな状況を考えるに、会津武田氏伝承はまったくの作り話しと結論する。


これにて武田氏は終了ですグッド!

甲斐武田氏、安芸武田氏、上総武田氏、常陸武田氏、伊予武田氏、京都武田氏、阿波武田氏(Ⅰ)(Ⅱ)、因幡武田氏、越中武田氏、土佐武田氏、武蔵武田氏、石見武田氏、相模武田氏、陸奥武田氏、越前武田氏、会津武田氏と知りえる範囲で全て網羅しました。

他にもご存じの方はご教示願いますm(_ _ )mヨロシコ


今後は、武田氏枝流と、佐竹氏、小笠原氏、三好氏、南部氏等を取り上げたいと思ってますチョキ



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