9月10日(金曜日晴れ



越中武田氏


1412年10月17日の『斯波満重書下案』によれば、京都東寺造営棟別銭徴収に際し、徴収に協力している斯波氏は栃波郡野尻保の給主であり、在京者である武田七郎次郎に平均棟別銭一疋の徴収を通告している。この武田七郎次郎とは、武田信満の弟、武田七郎五郎(七郎信久か)ではないかと考える。


1428年7月13日の越中守護畠山満家施行状によれば、吉河東西にあった武田氏知行分が停止され武田治部少輔の知行を排除し、八幡宮雑掌に渡すよう、守護代遊佐国盛に指示している。おそらく幕府側の過失も絡んで吉河を新たに恩賞として武田氏に付与したのであろう。ここで言う武田治部少輔は武田信満の7子、倉科治部少輔信広の事を言う。


1456年の「造内裏段銭幷国役引付」に武田下条殿として、塚原保段銭500文とある。ここで言う武田下条殿とは、年代的に武田信満の弟、下条六郎信継、もしくはその子信久と思われる。


甲斐武田信玄の弟、信綱の子孫といわれ、江戸期には庄屋をつとめ、その武田家宅は国の重要文化財指定を受けた。




石見武田氏


武田修理亮

1376年7月石見国河本城衆として軍忠を尽くした事への感状を細川頼之から与えられている。この修理亮は安芸武田氏関係の者であろうか。



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