8月19日(木曜日晴れ


因幡武田氏

若狭武田信賢の庶流と言うが不明。


武田左衛門大夫

『蔭涼軒目録』1491年11月6日条に「因幡守護山名豊時の使者」とみえる。

左衛門大夫は高信の祖、あるいは一族とみられ、当時因幡山名氏の家臣であったと考えられる。


武田国信 -1545?(山城守)

因幡守護山名氏の家臣で安芸武田氏傍流の一族。1545年久松山(鳥取)城を改築したが、あまりにも堅固すぎたため、主君山名誠通より謀反の疑念を買い謀殺された。又は1540年の橋津川の戦いで討死したとも伝えられている。

武田高義との関係は不明。


武田高義(豊前守)

山名氏の家老。天文年間(1532-54)以前に鳥取に来て客将として優遇されている。鳥取城定番。鳥取城の整備、拡張に励んだ。1546年10月、伯耆の南条宗勝を助けて橋津川の戦いで尼子氏と戦った因幡山名氏の重臣として、武田豊前守常信の名が見えるが、高義と同一人物だろう。


武田高信 1529?-1578(山城守)

武田高義の子。鵯尾城主で鳥取城定番。戦国大名化を遂げつつ有り、守護家山名氏と並立の状態に成っていた。

1563年因幡山名氏の一族と推定される山名豊弘を擁して但馬山名氏から離反、
鵯尾城を弟の又三郎に譲り、自らは鳥取城に常駐した。同年山名方の中村伊豆守に鳥取城を攻められたが、伊豆守を戦死させ12月には天神山城を攻略し、山名豊数を追った。この戦いを契機に武田・山名両氏の抗争は繰り返された。山名誠通の遺児、鹿野城主の源七郎豊敏を毒殺し、その弟の弥次郎豊次も立見峠で謀殺し因幡山名氏を滅ぼした。

1564年山名豊数と高草郡菖蒲村釣山にて合戦、豊数敗走して自害。

1569年因幡国法美郡甑山城を攻略し、山中幸盛を敗走させる。

1571年8月、高信の妹婿の但馬国阿勢井城主塩谷氏が山名豊国と結んだ為、高信は兵を阿勢井に出して塩谷氏と戦ったが敗れて、嫡男又太郎・次男与十郎をはじめとして多くの軍兵を失った。翌年8月、尼子氏の遺臣山中幸盛は山名豊国を助けて高信を討とうとした。山中幸盛を攻撃した高信は敗れ鳥取城に逃げ帰った。今回の敗戦と前年の敗戦により籠城する戦力が無く、豊国に誓紙を差し出し、自ら鳥取城を開いて鵯尾城に移った。ほどなく弟又三郎が没し、高信は1人で孤塁を守ったが、豊国は高信を散岐の大義寺に軍議と称して招き寄せ、寺門を閉ざして高信を誅した。墓は八頭郡河原町佐貫大義寺に有る。


武田又三郎

武田高信の弟。1563年高草郡鵯尾城主。


武田源五郎 -1563

武田高信の弟。1563年高信は巨濃郡の二上山城主三上兵庫頭豊範(山名祐豊弟)のもとに源五郎を送って盟約を結び、天神山城の山名氏に対した。同年山名豊数に攻められ、道竹城は落城。城主三上豊範と共に討死。


武田又太郎 -1571

武田高信の嫡男。1571年8月、但馬国阿勢井で戦死。


武田与十郎 -1571

武田高信の2子。1571年8月、但馬国阿勢井で戦死。


武田源三郎

武田高信の子、助信か?1574年亀井新十郎と共に小松原に、八東郡大坪城主大坪一之を攻め、敗れて帰る。


武田助信 1561-1646(徳充丸・源三郎・太郎右衛門・右衛門尉・久岳)

武田高信の子。1575年3月に小早川隆景に家督を安堵された「武田徳充丸」が後の助信と思われる。

父が謀殺されると重臣西郷因幡守によって匿われた。のち南条元続に引き取られた。のち豊臣秀吉に謁見し、鹿野城城番を命ぜられた。

1580年長和田・長瀬川の戦いに500余兵を率い参戦、南条氏を支援したが、同じく鹿野城城番であった亀井茲矩に疎まれ、鹿野城より追放された。が、毛利秀包に召抱えられ、筑後国久留米に滞在した。

1601年但馬国村岡藩主となった山名豊国に200石で仕える。子孫は明治維新まで山名氏に仕えた。


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