8月11日(水曜日晴れ


阿波武田氏Ⅱ

1556年武田信玄の弟信顕が京都で三好長慶に会い、その計らいで脇城主となり、付近に家臣を配置して城を守ったという。


武田信顕 -1582(上野介)

武田信虎の子という。今川義元に養われ、1556年阿波国美馬郡脇城に居城す(大日本人名辞典)。『阿波誌』には「信顕、駿河に生れ今川義元の家に養わる。童となり、来りて脇城に居る。元亀2年源長治に侍任す」とあり、『古城諸将記』には「脇城 武田上野亮、源氏、150貫、紋割菱也。武田信虎、今川家ニ寄宿ノ時ノ子也」とある。事実で有れば1541年以降の生れとなり、10代前半で城主となった事になる。

1579年土佐の長宗我部元親が美馬郡を制圧すると、元親に降った。

1582年三好康長の勧めで、岩倉城主三好徳太郎と共に再び三好方となるが、同年阿波国を平定した長宗我部軍のために城を落とされ、信顕は讃岐に逃れたが敵に包囲されて戦死した。讃岐国大川郡大内町東光寺に葬られた。


武田信定 -1582(太郎・千勝丸)

武田信顕の子。1582年長宗我部軍に脇城を落とされ、捕えられ自害した。のち脇人神社に祭られた。


武田信徒(蔵人)

武田信顕との関係は不明。美馬郡調子野塁城主。


武田信氏(四郎兵衛)

武田信徒の一族。美馬郡南郷塁城主。




主治医からは暑い中での外出禁止を言われてるので、数日内勤してるのでずっと歴史記事が続いててm(_ _ )mスマンノー



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