8月10日(火曜日雨くもり雷くもり


阿波武田氏Ⅰ

甲斐武田氏の出というが不明。『古城諸将記』に、「西方東条関之兵衛、武田源氏、紋割菱、2百貫、関之兵衛は東条紀伊守の甥なり。東条唯右衛門は弟なり、土佐方となる」とある。


武田信綱(甲斐守)

甲斐武田氏の出。阿波国那賀郡桑野城主。天文年間(1531-55年)に那賀郡桑野に移住し、桑野城を築き、鐙石から本荘に至る8ケ村を領有。子東条関之兵衛は長宗我部元親の養女を室とし、元親の阿波進出を援けた。


東条紀伊守 1544-1608(源光豊・行長・民部卿)

武田信綱の弟。高秀の子という。東条氏を称した。永禄年間(1558-70年)西方城を築く。三好氏に仕え河内国平島城主。のち豊臣秀吉の馬廻。1585年四国征伐で羽柴秀長に属し、甥東条関之兵衛の籠る阿波国木津城の降伏説得に活躍。1592年の文禄の役では肥前国名護屋に駐屯。のち秀吉から勘気を受け追放され、駿府で徳川家康に近侍した。大和国吉野郡内で千石を領した。


東条光秀(出羽掾・宗月)

東条関之兵衛の叔父という。天文年間(1531-55年)、阿波国橘に居留していた。天正年間(1573-91年)剃髪して宗月と号した。光秀は汐干潟を埋め、谷々を開いて十八町歩に及び橘の浦を開拓したという。


東条関之兵衛 -1585(源実光・武田信光)

武田信綱の子。東条氏を称した。桑野城主。度々牛岐城主新開遠江守道善と戦った。一方長宗我部元親とも戦ったが敗れ、長宗我部元親の養女を室とした。1577年三好勢の矢野駿河守、篠原肥前入道自遁らに攻められたが、これを追った。

1582年8月、牛岐右京之進・仁宇但馬守・四宮肥後守・四宮左馬允らとともに、中富川の合戦に加わり戦功をたてた。

長宗我部元親は撫養の木津に城を築き関之兵衛に守らせた。

1585年豊臣秀吉の四国征伐が始まり、主力は撫養に上陸し、木津城を攻めた。この時、秀吉軍に叔父東条紀伊守が従ってり、関之兵衛は叔父の説得により開城し土佐へ逃げ帰ったが、敗戦の責任を問われ弟東条唯右衛門と共に処刑された。


東条唯右衛門 -1585

兄の関之兵衛と共に処刑された。


源光房(武田光房)

東条関之兵衛の弟。阿波国佐渡守塁城主。


桑野康明 -1582(河内守・源康明)

東条光秀の一族という。高源寺城主。天正年間(1573-92年)に長宗我部軍により落城。1582年牛岐城主新開実綱・式部大輔親子と共に殺害された。


源宗任(武田宗任)

阿波国上福井領主。『故城記』には「武田源氏、紋菱」とある。『古城諸将記』には「武田源氏、二引両、百貫」と出てる。東条関之兵衛との関係は不明。


源宗吉(福井宗吉)

阿波国下福井領主。1575年長宗我部氏に降伏した。東条関之兵衛との関係は不明。



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