8月8日(日曜日晴れ


常陸武田氏


甲斐の武田信久が常陸国行方郡高家郷に入り、その支配地を武田郷と称して居所とし、その子孫が武田氏を称したが、その前に武田高信が確認されている。

1352年9月2日付の足利尊氏御教書では、武田式部大夫(高信)宛てに常陸国行方郡倉河郷を下河辺行景に沙汰せよと命ぜられており、1353年3月に武田遠江守高信が、この件に関しての請文を出している。この場合高信は守護代のような動きを見せている。


武田信久(七郎五郎)

甲斐国守護武田信満の弟市部信久と同一人物と云い、信満敗死後下総国に逃れ、のち常陸国行方郡に土着したという。応永年間(1394-1428年)、行方郡に武田(神明)城を築き、円通寺を建立した。寺宝に武田氏系図がある。

支配地を武田郷と称して居所としたが、城はその子孫通信が築城と伝える。

『茨城県の地名』によれば鹿島郡半原(はばら)村の項に、「室町時代中期、武田信久は幕命により結城に派遣された武田信長の一子直継を養子として当地に配し、以後武田氏の影響下に置かれたと伝える。」とある。

1441年4月、結城合戦の功により、鹿島郡借宿を所領として与えられた。


武田成信(刑部大輔)

武田信久の子。永享の乱(1438年)後、西砦を築いた。


武田信俊(民部少輔)

武田成信の子。


武田昌信(七郎)

武田信俊の子。


武田信益(七郎次郎)

武田昌信の子。


武田信次

武田昌信の2子。1455年小貫城を築く。


武田信重

小貫城主。武田信次の子と思われる。


武田信之

小貫城主。武田信重の子と思われる。


武田信親(七郎五郎)

武田信益の子。


武田俊房

武田城主。武田信親の弟と思われる。1534年稲荷神社を再建し武田郷9ヶ村の郷社とした。武田但馬守は子か。


武田民部大夫

1534年9月香取神社(木崎大明神)を再建した。年代的に見て信親の弟と思われる。


武田信治(大膳大夫)

武田信親の子。神明城主。1591年佐竹義宣と戦ったが敗れた。


武田通信(民部大輔)

武田信治の子。武田城を築いたと伝える。1534年内宿に木前(崎)砦を築き、1540年には鹿島治時を鉾田に破り、1571年に講和した。


武田信房 -1591(淡路守)

武田通信の子。信房は常陸南方三十三館の一人。1574年鹿島義清と鉾田に会盟し、両氏の係争地を分割させて和睦。1586年9月大掾清幹と戦い、また近隣の山田氏とも戦った。1590年豊臣秀吉から常陸国内での所領安堵を受けたが、翌年2月佐竹義宣に誘殺され、常陸武田氏は滅んだ。

『茨城県の地名』鹿島郡野友村の項に、「室町中期以降武田氏の影響下に置かれ、元亀年間(1570-73年)頃、武田信房が北方の防御として野友城を築き、鹿島氏に対処したと伝える。」とある。


武田輔信

武田信房の子。信房滅亡後浪人したが、のち水戸光圀に仕えた。


青柳勝信(武田大膳勝信)

鹿島郡蕨館館主。天正年間(1573-92年)鹿島郡青柳に進出し、青柳氏を称した。1591年武田氏滅亡後は帰農した。武田信房の弟か。


武田次郎左衛門尉(但馬守)

常陸武田氏の分家か。武田俊房の子と思われる。武田城主。戦国末期に行方郡の武田氏が鹿島郡に進出し、古屋(こじ)山丘陵に武田城を構築し、数代にわたり支配を続けた。城主武田次郎左衛門尉は佐竹義宣に服属し、但馬守と称したという。





※武田高信(遠江守・式部大夫)

1352年9月2日付の足利尊氏御教書では常陸国行方郡倉河郷を下河辺行景に沙汰せよと命ぜられており、1353年3月には高信は上記の件に関する請文を出している。この場合高信は守護代でなかったかと思われる。



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