8月5日(木曜日晴れ


武田信応 ? -1552(八郎四郎・式部大夫・長源)

武田信清の2子であり嫡子。父信清が入道した時に家督を譲られたと思われる。

真里谷城主。1564年第2次国府台合戦では里見義弘の軍に従軍し、同年11月7日に死去したというのが通説となっているが、信応の没年は1552年3月から12月までの間に死去したと考えられ、11月7日里見義堯に攻められ自害したのが事実のようだ。1552年信応の菩提寺妙泉寺に12月14日に北条氏が信応の菩提を弔うために寺領を寄進していう事から、信応も北条氏に属していた事が解る。

信応の死後北条氏の直接支配が展開されており、同時に武田氏による真里谷支配も見られなくなることから、信応の死去をもって真里谷武田氏は事実上断絶もしくは滅亡したものと考えられる。

1534年5月叔父信保(全方)が小弓公方足利義明の勘気を受け失脚し、その直後の7月1日に父信清が没すると、庶兄信隆が家督を奪おうとした為一族の抗争が起こったが、義明の支持を得て叔父全方が後見人となった。

1537年義明・信応の軍勢は信隆を攻め、信隆は敗れ上総を退去した。しかし翌年義明が国府台合戦で敗死すると、信隆は北条氏の支持を受け上総に復帰し、信応は失脚した。その後も一族の対立は解消せず、1543年には笹子・中尾両城を舞台に内紛が再燃し、その乱中に信隆は死去し収まったが、この内紛によって真里谷武田氏は勢力を減退し北条氏の支配下に組み込まれた。


真里谷信政(信濃守・信濃入道)

武田信応の子。真里谷城主か、1564年の第2次国府台の合戦に里見方として参戦。1590年徳川軍に攻められ下野国へ逃れた。那須家に身を寄せたという。

娘は宮原義勝の室。


真里谷信次(信濃守)

真里谷信政の子。


真里谷信行(新右衛門)

真里谷信次の子。


真里谷勝房(将監)

真里谷信行の子というが、時代的には弟か。1591年里見義康の家臣として存在が確認されている。「勝」字は宮原義勝の「勝」を授与されたと伝えられている。


真里谷信長(隼人佑)

系図的に不明。妻は長南武田大蔵佑の娘。長南武田豊信の家臣で、上総国長北郡藻原郷周辺を領した。

真里谷勝房と共に「真里谷」名字を称している。真里谷武田氏は、その当初から「真里谷」の家号が名字的に用いられる事が多く見られているが、名字はあくまでも「武田」であった。しかし本宗家滅亡後、その一族は「武田」名字を称する事は無くなり、家号であった「真里谷」を名字とするに至ったと考えられる。


逸見祥仙 1499?-1538(山城守)

小弓公方家の重臣。甲斐武田氏の庶流の一族とも、真里谷武田氏の一族とも言われているが、詳しい姻戚関係などは不明。

足利義明の重臣として房総地方における諸大名との外交などに多くの功績を立てた。1538年第1次国府台の戦いで義明と共に出陣し、共に戦死した。



上総守護代家


 1.武田信長 1400-1477 武田信満2子 鎌倉公方成氏近習。右馬助。

                              上総守護代。

                              長南・真里谷両城を築く。

 2.武田信高  ?  ー1480 武田信長の子 上総介。真里谷城主

 3.武田道信  ?  ー1481 武田信高嫡子 上総介。長南城主。

 4.武田上総介    ?      武田道信の子 長南城主。

 5.武田信嗣   ? ー1523 武田清嗣長子 上総守護代。房総管領。

                              三河守

                              真里谷・久留里両城主。

 6.武田信清   ? -1534 武田信嗣の子 房総管領。式部大夫。

                              真里谷城主。

                              根古屋城・勝浦砦を築く。

 7.武田宗信   ? -1551 武田三河守子 上総介・長南城主。

 8.武田吉信   ? -1569 武田宗信長子 上総介・兵部大輔。長南城主。

 9.武田清信   ? -1574 吉信の子か弟 信濃守。長南城主。

10.武田豊信   ? -1590 武田随雲の子 兵部大輔。長南城主。

                              徳川家康軍に攻められ自刃。



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