7月27日(火曜日晴れ


夏バテもせず、家族で唯一ご飯のお代わりをする勝頼ですグッド!

今日はどこでランチするかなぁ~音譜



武田信隆 ? -1551(八郎太郎・全吉)

武田信清の長子。信応の庶兄。これまで信隆は当主とされる事が多かったが、当主信応の対抗者である事が佐藤博信氏により明確化されている。のち嫡出の弟信応を擁する真里谷信助、長南武田宗信と、信隆を支持する真里谷武田真勝、同信茂、同政信と争った。これにより、信隆は椎津城に退いた。

1534年と35年に真里谷妙泉寺に寺領を寄進している。

1536年11月20日、小弓御所足利義明は信応と共に椎津城を攻め、信隆は逃れ造海城に籠った。翌年にも義明、里見義堯連合軍と戦っている。破れた信隆は北条氏綱を頼って鎌倉へ逃れ、金沢に落ち着いた。

1538年の国府台の戦いで足利義明が戦死すると、北条氏の助けもあって椎津城に復帰した。1541年2月、北条氏の援兵の力を借りて、里見義盛の佐貫城を攻め落とした。

1543年笹子城主武田信茂を攻め自害させた。

『笹子落草子』には1543年没とあるが、『真里谷武田氏系図』では1551年8月2日椎津城で没したとある。


武田信政 ? -1552(太郎・三河守)

武田信隆の子。椎津城主。1534年4月の里見義豊と里見義堯の争いには北条氏綱と共に、義堯を助け義豊を討ち取っている。里見氏に対する防衛として蔵波城を築いている。1552年12月里見義堯に椎津城を攻められ自刃した。


武田信重 ? -1552

武田信政の子。1552年里見義堯に椎津城を攻められ、落城討死した。


武田信光 ? -1552

武田信政の3子。1552年里見義堯に椎津城を攻められ、落城討死した。


武田直信

武田信清の子。大多喜根古城主。


武田信茂 ? -1543(真里谷三郎)

武田信清の子。笹子城主。武田全方・義信父子に擁され、兄信隆と争ったが、1543年信隆に攻められ自害した。


武田信秀 ? -1564

武田信清の子。1564年の第2次国府台の合戦で討死。


真里谷信常 ? -1552(真里谷源三郎)

武田信茂の3子。1552年椎津城の家老として久保田城を守っていたが、里見軍の攻撃に耐えられず、城を脱出して椎津城に向かう途中、笠上川付近で里見軍に発見され討死した。



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