7月20日(火曜日晴れ


さすが3連休、親子丼のみの『鳥新』や甘味処の『祇園小森』行列出来てる叫び


真里谷武田氏


武田清嗣 ? -1511(八郎五郎・信政・信興・三河守・三河入道道鑑)再掲載

武田信高の子。母は結城播磨守直弘の女。真里谷城主。小櫃川流域の畔蒜庄・飯富庄・菅生庄及び養老川流域の市原庄周辺にかけてを支配した。

文明年間(1469-87年)笹子城を築いた。里見氏側の諸書によれば、1471年里見義実に攻められ降伏している。1479年7月には太田資忠・千葉自胤に攻められ、太田氏に帰服し子の信嗣を上総に置き自らは武蔵石浜城の千葉自胤のもとに移り、にち1499年石浜の金龍山浅草寺を再建した。

明応年間(1492-1501年)には中尾城を築いた。1509年10月頃畔蒜庄を押す領した。のち剃髪して道鑑と号した。菩提寺真如寺の開基。



武田信嗣 ? -1523(八郎五郎・式部丞・式部大夫・三河守・信勝・全舜・三河 

               入道)

武田清嗣の嫡子。真里谷・久留里両城主。上総守護代。

長南武田氏が小弓城主の原氏と紛争を始めるようになると、信嗣は足利成氏の孫義明を擁立し(1517年頃)、安房の里見氏と手を結んで、原胤隆を破った。義明は小弓御所と称するようになり、信嗣は房総管領に任じられた。鶴峯八幡神社の1507年の棟札に武田信嗣の名が見える。『真里谷殿位牌系図』では、実名信勝として記載されている。1523年11月21日死去。

娘は簗田政助室と三浦義意室。


武田信秋 ? -1536(六郎信助・全鑑)

武田清嗣の2子。真里谷城代。1507年の鶴峯八幡神社の棟札に信秋の名が見える。1536年11月3日死去。


武田信清 ? ー1534(八郎五郎・式部丞・式部大夫・式部大夫入道・怒鑑)

武田信嗣の子。真里谷城主。1520年6月以降、翌年8月以前に里見義通等と共に周辺の情勢を調べて、足利義明の小弓城移座を実現し小弓公方を成立させている。房総管領を勤めた。

1521年根古屋城・勝浦砦を築く。1519年から1525年の間に入道したものと考えられる。1525年2月北条氏綱と断交する。1534年7月1日死去。


武田全方 ? -1549(大学頭・源七信保)

武田信嗣の2子。1507年11月父信嗣と共に上総国天羽郡佐貫城下の佐貫郷鶴峯八幡宮を再興している。真里谷家内紛では当主信応を支持した。1539年、42年に嶺上諏訪社、嶺下白山権現社に鰐口を寄進している「沙弥全芳」は全方と同音であり、しかも全方は内紛の結果、信隆方が領有していた峯上城を請け取ってる事からも、この全方と同一人物である事は間違いない。

1544年里見義堯の軍と共に中尾城を攻め落とした。1549年2月3日死去。


武田義信(大炊頭)

武田全方の子。室は里見実堯女。佐貫城主。1538年国府台の合戦で峯上城主の武田義房が戦死すると峯上城に移った。1539年六所神社を再建している。

1544年4月、父全方と義信は里見義堯・正木時茂・時忠の支援のもと信隆派であった後藤兵庫助及び北条氏の援軍福室帯刀左衛門らの軍勢が立て籠もる中尾城を攻めて、これを攻略した。しかし同年10月北条氏が西上総へ進出し、全方の居た峯上城も北条氏の支配下となり、その為義信は北条氏に帰属した。



にほんブログ村 地域生活(街) 関西ブログ 京都(市)情報へ にほんブログ村 歴史ブログ 中世史(鎌倉・室町)へ
にほんブログ村    にほんブログ村