7月13日(火曜日雨くもり


長南武田氏②


武田宗信 ? -1551(太郎・上総介・道観)

武田三河守の子と思われる。長南城主。室は千葉勝胤の女。

古河公方足利晴氏に属した。1551年11月15日死去。


武田随雲 ? -1557

武田宗信の弟と思われる。1557年3月12日死去。


武田吉信 ? -1569(太郎・上総介・兵部大輔・祖庭)

武田宗信の長子。母は佐倉城主千葉勝胤の女。明応期(1492-1500年)頃の誕生と思われる。1553年3月酒井胤治に攻められたが追い返している。1564年の第2次国府台の合戦に里見氏方として参戦。1569年4月17日死去。


武田清信 ? -1574(信濃守・玄旨)

武田吉信の子か弟。長南城主。1574年5月5日死去。


白井信方(河内守)

武田宗信の2子。伊知山城主白井平胤の養子となり白井氏を称し、城主となった。のち長南城に戻り武田豊信の家老となった。


白井信勝(但馬守)

白井信方の子。武田豊信に仕えた。長南城落城後地引村へ逃れ帰農した。のち旗本中根正成5千石の代官となった。


武田豊信 ? -1590(兵部大輔・全松)

武田随雲の子。武田信玄の3子とも伝えているが、確証無く不明。室は里見義堯女。天文末・弘治初頃に家督を継いだ。長南城主。娘は正木憲時室。

1558年安房清登山に陣を取った。清登山にこの年5月8日付の豊信の制札が残っている。1560年3月に長尾景虎の関東管領後継内定に対する祝賀として太刀を贈っている。1564年の第2次国府台の合戦に里見氏方として参戦。

1572年武田信玄の求めに応じ里見氏と北条氏の和睦の斡旋を行った。

1589年土岐氏の万木城を攻めたが長南城に敗走した。1590年7月徳川家康の家臣本多忠勝、平岩親吉が房総に侵入、7月7日に自刃した。北条氏に属し、上総椎津・姉崎の湊を支配した。

豊臣秀吉が小田原征伐に先立って関東諸城の兵力を調査させて記された『北条氏人数覚書』には「一、長南形(刑)部大夫 長南城・いけはたの城・かつみ城三ヶ所 千五百騎」とみえる。


武田氏信 ? -1616(道富)

武田豊信の嫡子。長南落城後上総月出に退去した。「氏」字は北条氏から与えられたもので、この天正期北条氏から「氏」字を授与された他国衆は上野国の由良氏繁のみで、ほぼ北条氏一門に準じられた存在で、大名身分にあるものに限定されていた。1616年9月25日死去。


武田大蔵祐

長南武田氏一族。系図的には不明。娘は真里谷武田信長室。



次回は真里谷武田氏だよグッド!



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