7月8日(木曜日晴れ


最近忙しくて、仕事部屋に籠ってます。

で、歴史記事ですチョキ最近歴史記事率多いなぁ(゚_゚i)汗



長南武田氏①


武田上総介

武田道信の子。娘は里見義通室。


武田宮内少輔

武田上総介の弟。室は宅間上杉憲能の女。


武田三河守(卜心)

武田上総介の子と考えられる。1524年4月の『足利高基書状』に長南三河守がみえる。これまでの長南武田氏は「信高」、「道信」、「上総介」と三代にわたって受領名「上総介」を称していたが、上総介の子と思われる三河守は上総介を称していない。受領名「上総介」は武田名字を冠されずに、同受領名のみをもって呼称されていたことから考えると、上総武田家の本宗家としての政治的地位を示すだけだなく、いわば「上総国主」としての政治的地位を示す表現でもあったと推察されるが、ここに至って同受領名を称してないことは、この「三河守」の代になって長南武田氏の政治的地位に大きな変化が生じたことを想定できる。おそらく永正末期における真里谷武田氏による小弓公方足利氏の擁立を契機として、真里谷武田氏が上総武田氏の本宗家的地位をも獲得したことに伴って、長南武田氏はそれに対応してその政治的地位を後退させたのではないかと考えられる。

真里谷武田氏が小弓公方足利義明に属したのに対して、三河守は古河公方足利高基に属した。


武田朝信 ? -1544

武田三河守の弟と考えられる。小田喜城主。吉宇城を築き守兵を置いて守らせた。娘は里見義豊室、このことから足利高基方に属する長南武田本宗家に対し、足利政氏・義明方に属する里見義豊と婚姻関係を結んだ朝信は、本宗家とは異なり義明方に属する存在であり、真里谷武田氏と政治的立場を同じくするものである。この事から長南武田氏は分裂していた事が判る。

1533~34年の里見氏内訌では、真里谷武田信清と共に里見義豊を支援し、里見義堯方の天津城を陥れ、これに在城した。しかし義豊敗死後、義堯方の正木時忠の軍に攻められて天津城を奪われ、小田喜城に拠って正木氏に対抗した。

1537年の真里谷武田氏の内紛には武田信隆に属し、北条氏康と結んだ。

1543年から翌年4月にかけて笹子・中尾両城で一族・家臣らの抗争が続き、朝信もこれに介入したが、中尾城を攻略した正木時茂・時忠の軍に小田喜を攻められ、

1544年8月7日、小田喜の東方、夷隅川流域の苅谷原の戦いに敗れ自害した。




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