7月4日(日曜日)
武田信高 ? -1480(上総介・信英・信定)
武田信長の子。伊豆千代丸といわれているが確証がない。
父信長と共に足利成氏に属した。真里谷城主。
1456年父に従って上総国へ打ち入り、長南、真里谷両城を取り立てて、父子これに盾籠もって国中を押領したという。信長・信高父子が長南城に居し、真里谷城には信高の子清嗣が入った。
1471年6月、下総古河城が上杉方の長尾景信軍に攻められ落城し、足利成氏は逃れ千葉輔胤・孝胤を頼ると、信高は上杉方に帰属した。
同年9月17日、将軍足利義政から「御内書」を受け取っている。
武田信武(三河守)
武田信長の2子。峰上城主。
武田氏信
武田信武の子。峰上城主。
武田政信
武田氏信の子。造海城主。
武田義房 ? -1538
武田政信の子。峰上城主。1538年の国府台の戦いで里見義堯に従い北条氏綱と戦い戦死。
武田信房(遠江守)
武田信長の3子。久留里城主。
武田武定(和泉守)
武田信房の子。久留里城主。
勝真勝(将監)
武田武定の子。久留里城主。天文年間(1532-54年)に里見義堯と戦い、久留里城を里見義堯に譲り、姓を勝と改め里見氏に仕えた。望陀郡勝より起こった氏と考える。御宿郷高山田の春日神社の天文19(1550)年棟札銘に、「須黒播磨守建立」がみえるが、この播磨守が真勝か?
久留里吉種(次郎)
勝真勝の2子。久留里と称する。里見義堯・義弘父子に仕えた。
※武田義広
応仁年間(1467-69年)佐貫城を築く。武田氏の上総入国は武田信長で1456年で、この義広が信長の一族かは不明である。
※武田信光(信濃守)
香取郡神崎町の初代武田城主。『香取郡誌』には武田信長の子孫とあるが、神崎庄武田村に拠った神崎氏の一族の可能性大である。
※武田四郎右衛門尉
千葉胤富の家臣。森山衆。神崎庄内武田城主の武田氏の一族と思われる。
1562年9月18日と、1574年9月の海上八幡宮の神事銭徴収の中に武田四郎右衛門尉の名がみえる。
※武田信家 ? -1590(四郎)
武田信光の子孫。1590年小田原北条氏に加勢し戦死。武田城も廃城となった。