2月5日(金曜日晴れ


昨日も体調すぐれず1日家にいました(w_-;

と、いうことで(祇園のラブホと違うよチョキ歴史どす舞妓はん


蠣崎季広(卯鶴丸・彦太郎・若狭守)1507ー1595

蠣崎義広の子。天文年間(1532ー54年)アイヌと和議し国中の騒乱を鎮めた。この時、世多内の酋長ハシタインをもって西蝦夷の奉行にし、志利宇知の酋長チコモタインをもって東蝦夷の奉行にした。


松前慶広(天才丸・新三郎・民部大輔・志摩守・伊豆守)1548ー1616

蠣崎季広の3子。1582年家督を継ぐ。1590年12月豊臣秀吉に拝謁。1592年秀吉に従い肥前国名護屋に至る。翌年正月秀吉より蝦夷一国及び松前の領地を認められる。1599年姓を松前と改めた。1600年福山城を築く。1604年5月従五位下伊豆守に就任。1615年大坂の陣に2子忠広とともに参加。慶広は軍学、文学に優れ外交にも優れていた。


松前盛広(松房丸・甚五郎・守広・若狭守)1571ー1608

松前慶広の長子。1596年徳川家康に拝謁。


松前忠広(武蔵丸・甚平次・隼人正)1580ー1617

松前慶広の2子。1599年大坂城西丸にて徳川家康に拝謁。1604年徳川秀忠に仕える。1610年9月下野国河内・常陸国真壁両郡において千石を賜う。1614年御書院番に列し、同年の大坂陣、1615年の再陣に従軍した。同年武蔵国児玉・那賀、上野国群馬3郡の内千石加増される。


松前由広(数馬・種広)1594ー1614

松前慶広の4子。一時兄盛広の養子となるが、実子公広が幕府から嗣子として認められたのち、1614年大坂冬の陣に際して豊臣方内応の嫌疑をうけ12月26日、父慶広の命により殺害された。


松前公広(竹松丸・甚五郎・茂広・武広・志摩守)1598ー1641

松前盛広の子。1613年徳川秀忠に拝謁。1617年祖父慶広の遺跡を継ぐ。1634年徳川家光上洛の際従う。


松前氏広(弁之助・主殿)1624ー1648

松前公広の2子。1638年初めて徳川家光に拝謁。1641年父の遺跡を継ぐ。1643年西部蝦夷叛乱を鎮める。


松前泰広(竹松丸・甚十郎・八左衛門)1625ー1680

松前公広の3子。1639年初めて徳川家光に拝謁。1646年御小姓組に列し蔵米千俵を賜る。1669年アイヌの酋長シヤクシヤインが叛乱し、これを鎮めた。その功により幕府より常陸国真壁郡内で500石を賜る。1675年御使番となる。


次は京都武田氏ですグッド!



朝青龍朝青龍が引退なら、武蔵川理事長も辞任しろビックリマーク

品格が有ると判断したから横綱にしたんやろビックリマーク

ちょっと、ぼやいてみたチョキ力士。力士。



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