1月28日(木曜日雨くもり


昨日は晴れ晴れなので散歩に行きました音譜

龍馬を訪ねる小さな旅に行きました音譜


まず地下鉄京都市役所前で降り、ホテルオークラの長州藩邸址へ地下鉄走る人


四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都21


四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都23

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都22
長州藩邸址に立つ桂小五郎の像

木戸孝允1833-1877

幕末、桂小五郎として知られていた尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称されている。



長州藩邸は南北は高瀬川一之舟入の南側から御池通りまで、東西は河原町通りから木屋町通りに至るまでの広大な敷地を占め、幕末には尊王攘夷派の拠点となった。1864年の禁門の変で敗れた長州藩は、その直後に藩邸に火を放って退却した。


ホテルオークラの東隣の料理旅館『幾松』へ走る人


門前に桂小五郎幾松寓居跡の石碑があるチョキ
四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都24


四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都16

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都18

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都17
芸妓であった幾松が桂小五郎と恋仲となり、長州藩邸に東に構えた寓居が現在の料理旅館『幾松』です。

桂を狙う新撰組がたびたび寓居に踏み込み、幾松は何度も桂の窮地を救ったと言われている。敵の襲撃に備えた抜け穴や吊天井などが当時に近い状態で保存されている。


木屋町を南下し、三条通りを西に向かうと〝池田屋騒動之址〟に着く走る人

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都19

新撰組は、池田屋にて過激派尊王攘夷の志士たちの密会を発見し、近藤勇、沖田総司ら4人で踏み込み、激戦の末20数名を捕縛した。

現在は旅館池田屋を再現した居酒屋『海鮮茶屋池田屋はなの舞』がある。


木屋町通りに戻り、三条から1本南の路地を西に行くと『酢屋』(坂本龍馬寓居之址)がある走る人
四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都20
材木商の酢屋は、幕末当時は6代目の酢屋嘉兵衛で、坂本龍馬に共感して自宅の一室を海援隊の事務所として提供した。


そのまま木屋町を高瀬川沿いに南に歩くと走る人土佐藩藩邸跡と彦根藩藩邸跡の石碑を見つけた。
四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都13

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都12

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都11

そこを西に曲がると土佐稲荷・岬神社が有った走る人

創建は1348年、もとは鴨川の中洲の岬にあった。江戸時代の初め頃に土佐藩邸内に遷座されたもので、坂本龍馬などの土佐藩士のほか地域の人々の信仰が深く、参拝のために特に藩邸内への通り抜け参拝を認めていた。明治4年に土佐藩邸が売却され祠も別の地に遷されたが、近江屋の初代が旧土佐藩邸用人屋敷を買い取り、1887年にこの地に遷座させた。そして、1917年に先斗町や木屋町など近在の信徒が浄財を集めて祠を建立し、今日に至っています。現在、宮司は八坂神社の宮司が兼任しているとの事。
四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都14


四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都15


四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都6

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都9

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都8

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都7

境内に有る坂本龍馬像チョキ


そのまま西に進み河原町通りに出ると、


(-_\)(/_-)三( ゚Д゚)エー!?・・・龍馬が居た




四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都10


四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都


今度、「龍馬を喰らうビックリマークって企画しよかな(*^▽^*)エヘヘ

龍馬ファンの美人の方、ご一緒しませんかはてなマーク(//・_・//)



そのまま河原町通りを渡ると、龍馬が暗殺された近江屋に着く走る人
四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都3


四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都2

龍馬は1867年11月3日寺田屋から醤油屋の近江屋に移った。11月15日夕刻、中岡慎太郎が近江屋を訪れ、三条制札事件について話し合う。夜になり客が近江屋を訪れ、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出た。元力士の山田藤吉(大津三井寺町出身・龍馬の世話係兼用心棒)は客を龍馬に会わせようとするが後から斬られた(1日後に死亡)。このとき「ぎゃあ!!」と大声を上げた山田に対し、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と言い、刺客に自分たちの居場所を教えてしまう。刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入した。そして龍馬は額を斬られた(この他、浪士達が二人を斬る前に名刺を渡してから斬ったという説などいろいろな説がある)。龍馬は意識がもうろうとする中、中岡の正体がばれないように中岡のことを「石川、太刀はないか」と変名で呼んだという。その後龍馬は胸など数カ所を斬られついに絶命。中岡はまだ生きており助けを求めるが、2日後に吐き気を催した後に死亡した。

なお、近江屋と土佐藩邸の位置関係は、河原町通りを隔てた真向かい(数メートル)であったが、暗殺当夜に土佐藩邸からは何の救援の手も差し伸べられなかった。

現在においては坂本龍馬の知名度は中岡慎太郎に比べて圧倒的に高いため、「坂本龍馬を殺した犯人は誰か?」という議論をされる事が多いが、当時においては龍馬の知名度はあまり高くなかったため、中岡が暗殺犯の目的であり、龍馬は単なる巻き添えではなかったのかという説もあり、事実、中岡の刀傷は数十箇所もあった。


河原町通りを東に渡り、木屋町へ抜けようとしたら走る人

古高俊太郎低跡の石碑があった 音譜『志る幸』の隣だよんグッド!

1829年~1864年

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都4

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都5

桝屋喜右衛門こと古高俊太郎が、薪炭商を営んでいた場所。古高は梅田雲浜の弟子で、早くから勤王活動を行っていた。特に、長州藩との繋がりが深く、八・一八の政変の後それを新選組に探知され、1864年6月4日捕縛されるに至った。店からは、多数の武器と重要な書類が押収され、翌日の池田屋事変を引き起こすきっかけとなりました。蛤御門の変の翌日7月20日、獄舎に火が迫り逃亡の恐れがあるという理由で、他の収容者と共に惨殺された。

四条通りを東に走る人

円山公園へ走る人
四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都36

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都35

坂本龍馬(1836-1867)・中岡慎太郎(1838-1867)

1962年に再建されたもので、龍馬が立ち、中岡が座っているのは、時代を見通す先見性と行動力のある龍馬と内実の功労があり、するどい洞察力を持つ中岡、お互いの視点を補完している姿を示しているといわれている。


円山公園から南に走る人維新の道を登り走る人汗

しんどかった・・・(゚_゚i)


霊山護国神社明治維新史跡公園へ走る人しんどい(゚_゚i)汗


四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都32


四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都37

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都28

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都27

龍馬の墓の横に立つ銅像


四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都40


四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都38
龍馬・中岡の墓


四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都30

龍馬の墓


四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都31

中岡の墓


龍馬が毎日眺めてる風景
四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都39

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都29


桂小五郎(木戸孝允)・幾松(木戸松子)の墓
四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都34


四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都26

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都25

観光のお兄ちゃん、木戸孝允の墓前で「桂小五郎の墓が無いビックリマーク」って言って探してましたγ(▽´ )ツヾ( `▽)ゞ

桂小五郎=木戸孝允くらい知っとけよ(´0ノ`*)オホホホ

四郎勝頼の京都祇園日記-幕末の京都33
志士達の墓


大村益次郎の墓もあったなぁチョキ


八坂神社に出て走る人東大路通りを北へ走る人

古門前通りを白川沿いに走る人


四郎勝頼の京都祇園日記-白川16

四郎勝頼の京都祇園日記-白川


地下鉄東山駅から地下鉄帰りましたチョキ


疲れた~・・・勝頼、龍馬にまったく興味無かったのに汗

だって龍馬って、死後有名になり、司馬遼太郎氏が完成させた人物だもんチョキ

あ~あ龍馬ファンに叱られるなぁσ(^_^;)ポリポリ



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