2月2日(火曜日晴れくもり雨くもり


昨日は雪が積もって・・・若い時は庭を駆け廻ったのに犬・玲王菜散歩

こたつ猫で丸くなってた白黒ネコ

なので、歴史だワン犬・玲王菜

歴史だニャンネコ虎猫の尻尾



蠣崎・松前氏

武田信賢の子信広が若狭国を出、1452年蝦夷の蠣崎季繁のもとに奇遇したのに始まる。のち季繁の婿となり蠣崎氏を称した。季繁は『蠣崎氏系譜』によれば、1443年6月、若狭から上ノ国に渡り、館を勝山に築いたとある。

1456年蠣崎蔵人信純は謀反を理由に八戸南部家らに陸奥国蠣崎館(青森県下北郡川内町蠣崎)を攻められ、蝦夷へ逃れた。信純は若狭武田信賢の子孫といい、蝦夷へ渡ってから武田信広となったという。以上2説有り。

『系図研究の基礎知識』では、「甲斐の武田一族が、同族である南部氏に属して下向したとみる方が当たっていよう。建武中興後(1334年)、間もなく、その武田修理大夫(信義か)が、根城(八戸)南部師行の目代として下北の田名部蠣崎村を領し、やがて南北朝抗争の過程で、この一族は南朝のために尽力する。伝説に拠れば新田義純が足利氏と好誼して豪奢な生活を送っていたため、臣従していた武田修理大夫の5代目、すでに蠣崎を名乗っていた蔵人信純が、1456年叛乱を起こし、義純を暗殺したという。信純は上国安東氏や葛西氏の援助で一時は勢力を得たが、南部政経によって蠣崎城を襲われ、翌年逃れて蝦夷地の松前に走った。蔵人信純は松前に移って武田信広と改めたと言われ、一説には信純と信広は別人で、信広は信純の女婿となってそのあとを継いだものともいう。」と説いている。

しかし若狭武田氏側の資料では武田信広は出てこない。あるいは信純は武田信広と改姓し、安東氏の被官蠣崎季繁の養嗣子になったものか?蠣崎信純系は〝信〟の字を通字としており、武田一族であり、季繁は〝季〟を通字としている安東氏の被官もしくは一族ではないかと思われる。武田信広が両蠣崎を統合したと考える。


次回は武田信義~信広~蠣崎義広ですグッド!



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