1月23日(土曜日くもり


武田元明(孫八郎・元次)1552ー1582

武田義統の子。母は将軍足利義晴の女。

1567年父義統の死により家督を継いだが、この時すでに武田氏の勢威はないにひとしく、譜代の家臣らは自領に引きこもり、元明に従わなかった。翌年8月越前朝倉氏が若狭に侵入し小浜を攻めた時、元明は朝倉氏に庇護を頼んで越前に去り、ここに若狭武田氏は事実上滅亡した。

1573年8月朝倉氏が滅ぶと、元明は若狭へ帰り神宮寺などに潜居したと伝えるが、1581年かっての武田氏家臣逸見昌経の死去に伴い、その旧領大飯郡の内3千石を織田信長から与えられた。しかし翌年の本能寺の変に際し、明智光秀に味方し丹羽長秀の居城佐和山を攻め落としたため、同年7月19日近江海津で自殺させられた。室竜子は京極高吉の女、元明の死後羽柴秀吉の側室となり、松丸殿といった。


武田義勝(津川義勝・佐々木義勝・佐々義勝)

武田元明の子。

父元明自刃後、義勝は武田姓をはばかり津川姓を称した。のちに津川義勝は親族である京極高次に重臣として仕えた。京極高次が関ヶ原の戦いの功により若狭一国の主となると大飯郡高浜城5000石を与えられ、また佐々木姓を称することが許された。以後佐々木義勝または佐々義勝として京極家重臣に列した。江戸時代の丸亀藩家老の佐々家はこの末裔といわれている。

1836年10月25日丸亀藩主京極高朗が、多度郡白方村で大筒の試射に臨場した時、家老佐々九郎兵衛は供奉している(香川家文書『万事覚附』)。



木下勝俊(式部大輔・若狭守・少将・長嘯子)1569ー1649

木下家定の嫡男。しかし、勝俊と利房兄弟は武田元明の子という伝承もあり、『群書系図部集 若州武田系図別本』には「ー(略)ー義統ー元明ー勝俊」と記されている。また『稚狭考』には「ー(略ー)武田元明の子二人あり、肥後守家定養ふて子となす。ー(略)ー母は京極氏の女松の丸殿なり、二の子勝俊、利房なり。勝俊は小浜、利房は高浜、ともに本国を領させ給ふも故有事なり」とある。

『長嘯子新集』には「木下勝俊は武田元明と三淵伊賀守晴員女との間の子だったが、幼い時に母に死に別れて、四歳時から杉原(木下)家の養子となる。その後元明が後妻に高吉女(松丸殿)を迎えた。」とある。

豊臣秀吉は宇喜多直家の室、お福を側室にした折、お福と三浦貞勝との子桃寿丸やお福と宇喜多直家との子八郎(後の秀家)を育てたりもしているので、松丸殿を側室にした時に家定に預けた可能性も否定できない。

また秀吉は武田氏の旧領若狭国小浜城6万2千石を勝俊に与えたり、娘を徳川家康の5子武田信吉の室にと命じたりしているのは、勝俊が武田氏の血筋だったという証しかもしれない。しかし確証は無く伝承である。

豊臣秀吉に仕え、小田原役・朝鮮役に従軍。1600年の関ヶ原役に伏見城預かったが、任務放棄の咎により失脚。洛東東山(のち洛西大原野)に隠棲し風雅をもって鳴る。細川幽斎・林羅山・松永貞徳らと交わり、とくに和歌に優れ、近世の和歌は長嘯子に始まると称される。和歌和文集『挙白集』がある。1649年6月15日没、高台寺に葬られる。


木下利房(勝義・宮内少輔)1573ー1637

木下家定の2子。しかし兄勝俊と共に武田元明の子という伝承もある。

豊臣秀吉に仕え若狭国高浜3万国を領したが、1600年の関ヶ原に西陣に与して加賀大聖寺城攻略に従ったため所領没収。しかし大坂陣の功により1615年7月、備中国賀陽・上房両郡の内2万5千石を与えられ、足守に居した。1625年禁裏御番を命ぜられて京都東河原に屋敷を与えられ、翌年の将軍徳川家光上洛に供奉した。

1637年京都で没、高台寺中円徳院に葬る。


若狭守護家


1.武田信栄 1413ー1441 武田信繁長子 安芸守護、尾張知多郡分郡守護

2.武田信賢 1420ー1471 武田信繁2子  安芸、丹後守護

3.武田国信 1442ー1490 武田信繁3子  安芸、丹後守護

4.武田元信  ? ー1521 武田国信2子  安芸、丹後守護

5.武田元光 1494ー1551 武田元信長子 弟信孝と家督を争った

6.武田信豊 1514ー ?  武田元光長子 義統と家督を争った

7.武田義統 1526ー1567 武田信豊長子 元明と家督を争った

8.武田元明 1552ー1582 武田義統長子 羽柴秀吉に自害させられる


次回は蠣崎・松前氏ですグッド!



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