2月23日(火曜日晴れ


甲斐武田氏総集編⑥武田信玄と兄弟たち


武田竹松1517-1523

武田晴信の兄との記録がある。


武田晴信(太郎・勝千代・左京大夫・大膳大夫・信濃守・信玄)1521-1573

武田信虎の嫡子。母は大井信達の女。

1541年6月、父信虎を縁戚関係にあった駿河の今川義元のもとへ追放し当主となった。その背後には、信虎がその政権末期に独断専行し、家臣団の遊離を招き、かつ長男であった晴信を廃して、次男の信繁を取り立てる動きがあったからである。

家督相続の直後から信虎による信濃侵攻政策を継承し、翌3月小笠原長時・村上義清・木曾義康らを信濃瀬沢に迎え撃ち破る。

同年7月高遠頼継とともに諏訪頼重を上原城に攻め、頼重は桑原城に奔り、8月甲府にて自害。

9月高遠頼継を破り諏訪郡を占領。

1543年9月信濃長窪城を攻め大井貞隆を生け捕る。

1544年11月藤沢頼親を信濃福与城に攻める。

1545年4月高遠頼継を信濃高遠城に攻める。6月藤沢頼親を福与城に囲む。8月今川義元が北条氏康と駿河で戦うと、晴信は義元を援けるため吉原に陣す。

1546年5月佐久郡内山城を陥る。8月佐久郡志賀城を陥る。10月板垣信方に上杉憲政を笛吹峠に攻めさせる。

1547年8月笠原清重を佐久郡志賀城に攻め、これを陥る。

1548年2月上田原に村上義清と戦い敗れて負傷する。板垣信方、甘利虎泰等戦死。7月塩尻峠に小笠原長時を破る。9月佐久郡田口城を陥る。

1549年4月佐久郡春日城を陥る。

1550年7月小笠原長時と筑摩郡村井に戦いこれを破る。9月村上義清の属城小県郡戸石城を攻めて敗れる。

1551年10月安曇郡平瀬城を陥る。

1553年には村上、小笠原氏を越後へ敗走させた。敗走した村上義清らは、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、その援助によって旧領の回復を試みた。同年8月景虎は信濃へ出陣し、更級郡川中島で初めて晴信と対陣した。

1554年3月今川氏の援軍として駿河へ赴く。8月長子義信とともに信濃へ出陣、木曾義昌・知久頼元らを降す。これによって北信を除く信濃をほぼ制圧した。

1555年7月長尾景虎と川中島で戦う。

1557年2月景虎の部将落合備中守を水内郡葛山城に攻めてこれを陥る。8月景虎軍と水内郡上野原で戦う。

1559年2月出家して信玄と号した。

1561年4月、武田勢は碓氷峠を越えて西上野を侵略し、同年9月景虎と川中島で戦う。信玄負傷し、弟信繁戦死。

1562年11月、北条氏康とともに武蔵松山城を囲む。

1563年2月、上野国峰・松井田・安中・岩櫃の諸城を攻略。12月、景虎の部将倉賀野直行を上野倉賀野城に攻める。これによって長尾景虎との攻防は北信から西上野地域に移り、北信も武田領となった。

1564年7月には木曾郡から飛騨を攻め、1566年9月には、西上野の反武田勢力の拠点であった上杉輝虎の部将長野業盛を上野箕輪城に攻め攻略している。この間、隣国の駿河今川氏、小田原北条氏とは婚姻関係を結んで三国同盟を保っていた。

北関東では北条軍と連携して上杉輝虎(謙信)と対決を続けていた。しかし、この時期に嫡子義信の謀反事件が起こり、家臣団に動揺が起こっていた。1565年義信の謀反が発覚し、義信は幽閉され、関係した重臣層が処断された。嗣子を欠くことになった信玄は、直ちに高遠城主であった四郎勝頼に織田信長の養女を妻として迎え、体制の立て直しを計った。1567年には義信に切腹を命じ、動揺した家臣団からは大挙して起請文を提出させた。

義信が刑死すると、その妻を今川氏真のもとへ帰し、駿河との同盟関係を絶った。そして翌1568年には駿河へ侵攻し、氏真を掛川へ追った。

氏真は援を北条氏に求め、氏康が駿河へ出兵して信玄と対戦した。これによって三国同盟は解消され、以後、北条氏との抗争が激化していった。

駿府を占領した信玄は、1569年4月駿河薩埵山の戦いで北条氏政に敗れ、一旦駿河から撤退する。しかし6月に入ると伊豆に侵入、三嶋大宮城を攻略した。

9月、武蔵鉢形城に北条氏邦を攻める。10月、西上野から武蔵を経て北条氏の本拠小田原城を包囲し、その遠征の帰路には相模三増峠で北条軍を破り、12月には再度駿河へ出兵し、駿府を占領した。徳川家康も遠江に進出し、これによって今川氏は滅亡し、信玄による駿河支配が始められた。

北条氏との対戦はその後も駿東郡や伊豆で続けられたが、1570年1月、駿河花沢城を攻略。9月伊豆に入り韮崎城を囲む。

1571年末に北条氏康が病死するに及んで、その遺言によって両者の和睦がなり、信玄は再び西進策をとった。

1572年にはいると、相次いで遠江・三河へ出兵し、徳川家康及びその背後にいて畿内を掌握しつつあった織田信長と対決するに至った。

10月には大軍をもって自ら出陣し、西上の途についた。

12月には家康の居城である浜松に近づき、遠江の二股城を攻略、続いて三方原で徳川・織田の連合軍を破った。進んで三河へ入り野田城を攻め、その一方で積極的な外交作戦によって越前朝倉氏、近江浅井氏、本願寺勢力に働きかけて織田信長の包囲網を作っていった。

鴨川達夫氏は朝倉義景や石山本願寺の催促が無ければ、遠江、三河には出てこなかったとし、反信長陣営の主将として引っ張り出された。と考察されている。又この結果が武田家の運命を決めてしまったと論じている。

しかし、野田城を包囲中の1573年4月、陣中で病を発し、一旦甲府へ帰陣する途中、同月12日信濃伊那郡駒場で病死した。


信玄の治世33年間にはこうした対外侵略を支えた政策として領国支配にいくつかの特徴的なものが見られる。まず、領国の法体系として、1547年6月には『甲州法度之次第』が定められ、分国法として父信虎期の総括をするとともに、その後の施政方針を明らかにしている。

ついで1558年には、弟信繁に命じて家訓を制定し、家臣団の忠誠を喚起させている。

その家臣団編成は、親族衆・譜代家老衆・他国衆・譜代国衆・直臣衆の五類型からなり、最上層の親族衆・譜代家老衆は、征服地も含めた支城領に城代として配置されており、また家臣団の中核をなす譜代国衆、直臣衆も、奉行・代官として実務を分担し、それぞれ侍大将として配下に寄親寄子制にもとづく寄子・被官を抱えて、全体として武田軍団を編成していた。

信玄はこうした家臣団各層を配して村落支配を強化し、一方では直轄領も要所に配置して財政的基礎を固めた。

知行地・直轄領・寺社領ともに局地的ではあるが検地や棟別調査を実施し、在地の直接掌握に努めた。


城下町である甲府には商人・職人を集住させ、各種の特権を与えて領国の経済活動に奉仕させた。

交通制度も早くから整備し、伝馬宿駅制は占領地にも及んでいた。

このほか、信玄堤と俗称される治水政策や新田開発、甲州金、甲州桝と称される度量衡の統一や金山の開発など、信玄の創始といわれる施策は多い。


久満田泰昌氏の『武田信玄の死因とその周辺考』によれば、「病の原因はストレス、駿河出陣の前年、すなわち永禄10年の義信の自害にある」とし、「隔とは食道あるいは胃の病と断定すべきである」としている。


武田戌千代1523-1529

信虎の3子。母は大井信達の女と思われる。7歳で夭折したため、父信虎は家臣の跡部宮内丞を高野山に派遣し、供養を依頼している。法名芳厳伊春大禅定門


武田信繁(次郎・左馬頭・典厩)1525-1561

信虎の4子。母は大井信達の女。

父信虎は嗣子晴信よりも弟信繁を寵愛し、晴信を廃嫡する動きがあった。1541年6月晴信は機先を制して信虎を姉婿であった駿河の今川義元のもとへ追放し、家督を相続した。

信繁は兄に従い国内で混乱は起こらなかった。その後も信繁は兄晴信を助け、各地に転戦し、武勇の将と称された。

『甲陽軍鑑』によると親族衆として200騎持の侍大将に位置づけられている。

1558年4月、子信豊に百ヶ条の訓戒を与えた。その内容は当主晴信への忠誠と武将としての訓戒をまとめたもので、『武田信繁家訓』と称して、武田家の家法となった。

1561年9月10日、越後上杉景虎との信濃川中島合戦で戦死した。


武田信豊(六郎次郎・左馬助・典厩・相模守)1549-1582

武田信繁の子。1561年9月、父の戦死後家督を継ぐ。

晴信・勝頼に仕えて親族衆として信濃小諸城を守る。

1567年8月の『生島足島神社起請文』に武田六郎次郎信豊とある。

1575年の長篠合戦で、実弟望月信頼が戦死すると、信豊が名代として望月領を掌握することとなった。この敗戦後の8月、信豊は小原継忠と共に高遠城に派遣されている。又、勝頼後期には、勝頼側近の中心人物であった。

1582年2月木曾義昌を攻めたが敗退、信濃小諸守備に向かった。同年3月織田信長の武田氏攻略に際して、城代下曽根覚雲斎に謀殺された。

『甲斐国誌』では自害とある。『当代記』に34歳とある。

何故小諸城に入ったかは、信豊が上野や東信濃地域との繋がりを勝頼が期待したものと推察される。


望月信頼(右近大夫・左衛門尉・義勝)1551-1575

武田信繁2子。1564年北信濃の望月信雅家を継いだ。騎馬60騎。

1575年長篠で戦死。


武田三郎?-1564

武田信繁の子。『高野山引導院過去帳』に「甲州武田三郎殿、永禄7年甲子9月21日」とある。


武田次郎?-1582

武田信豊の子。父と同じく小諸城で殺された。妻は武田勝頼の娘。


武田信友(六郎・信基・上野介・左京亮)

武田信虎の5子。母は内藤氏。室は瀬名貞綱女。

享禄年間(1528-32年)の生まれと思われる。

1541年の父信虎の駿河隠遁後に、その元にあったことは事実とみられ、そのまま駿河今川義元の元にあって左京亮を称していた。

1568年12月、兄信玄が駿河に侵攻してくると、今川氏から離叛して信玄に従った。後葛山氏の叛逆に連座し甲斐を去り、小田原北条氏に仕えたという。

『小田原衆所領役帳』に「武田殿127貫文」とあり、千葉那胤の為に滅ぼされたという。

※信友は手直ししてますが、今回は前回掲載ままにしました


武田信堯(勝千代・信則・信雅・信光・左衛門佐) ?-1582

武田信友の長子。百騎の親類衆。室は葛山播磨守信貞の女。小山田信茂とは相婿の関係にある。

1569年築城された駿河江尻城の城将となる。

長篠の合戦で生き残り、1582年の織田軍との戦いでは、義兄信茂と行動を共にして勝頼に背き、信茂らとともに甲府善光寺の織田信忠本陣へ出向いて殺された。29歳と伝わる。


武田信真(右馬允) ?-1585

武田信友2子。父と同じく討ち死にという。


武田佐吉(源市郎)

『系図纂要』によれば武田信光(信堯)の子。しかし年代から見て信友の子と思われる。

北畠信雄に仕え、下見郷、於幾郷、大炊郷の内980貫を領す。

後に織田信長の奉行衆。

1578年12月有岡城攻めの時は高山重友の開けた高槻城に入り城番を勤めた。翌年12月には山城の代官として石清水八幡宮の造営を命じられ、無事竣工させた。

のち豊臣家に仕え、大坂役に参戦。


武田喜太郎 ?-1582

下方弥三郎の子。武田佐吉の養子となる。織田信長の小姓。本能寺で戦死。



武田信廉(孫六・信綱・刑部少輔) ?-1582

武田信虎の6子。母は大井信達の女。『甲陽軍鑑』によると親族衆として80騎持。

絵画に巧みで、父信虎画像、母大井氏画像をはじめ作品を残している。

1567年8月の『生島足島神社起請文』には武田刑部少輔信廉と見える。

1570年深志城代となる。1573年落髪、信綱と改名。

1581年10月、信濃伊那谷の大島城に入り、織田軍の防衛を指揮していたが、翌年1月撤退し、御岳の奥に潜んでいたが、3月立石で殺された。54才と言う。


武田信澄(平太郎)1560-1576

武田信廉の子。


大龍寺麟岳 ?-1582

武田信廉の2子。長善寺春国和尚の弟子。都留郡田野で勝頼に殉じた。豪僧で敵を9人まで切ったという。


松尾信是(源十郎・民部少輔) ?-1571

武田信虎の7子。母は松尾信賢の女。母方の姓を冒し松尾氏を称し、松尾郷等を所領とした。

松尾郷は甲府の北方に位置しており、武蔵秩父口の押さえとして配置されていた。


宗智

武田信虎の8子。母は松尾信賢の女。恵林寺僧侶。


一条信竜(右衛門大夫・上野介) ?-1582

武田信虎の9子。1539年か1540年の生まれ。200騎持。一条氏を継いで一条氏を称した。

市川郷上野城を本拠とし、甲府の南方警備の任にあったと思われる。

兄信玄の駿河侵攻後、田中城代、駿府城代等を勤めた。

1571年には大和松永氏との外交を担当している。

1572年12月の三方ヶ原の戦いでは徳川軍の酒井忠次隊を破っている。

信玄没後、勝頼の後見を務めた。

1574年からの美濃明智城攻め、遠江高天神城攻め、長篠合戦にも参戦。

1582年の徳川家康の侵攻により、3月2日駿府から甲斐へ退却、3月10日徳川勢に上野城を攻められ戦死。


一条信就(右衛門大夫)1563-1582

一条信竜の長子。駿河田中城代。

1582年2月20日徳川家康の侵攻により甲斐へ退却し、3月7日甲府立石において織田信忠のために殺害された。


河窪信実(兵庫助) ?-1575

武田信虎の10子。1538年か1539年の生まれ。妻は漆戸河内守の女。

河窪氏を継ぎ、信濃佐久郡口の河窪城を守り、兄松尾信是の死後、その知行地松尾郷を預かって居館を山梨郡小屋敷郷に置き、東郡を領し秩父口の守備にも当たった。

『甲陽軍鑑』によると親族衆として騎馬15騎、諸浪人組を統率し、合わせて200騎の侍大将。

1575年5月三河長篠の戦いで、鳶の巣砦で戦死。


河窪信俊(松尾新十郎・与左衛門)1564-1639

信実の長子。最初松尾信是の婿に入り松尾氏を称した。夫人が夭折したため武田信廉の女を室とした。武田家滅亡後徳川家康に仕えた。

1582年11月、柴田康忠に従って信濃佐久郡に赴き戦功があった。

1583年2月小諸・岩尾両城攻めにも参加、4月甲斐松尾郷片瀬村において本領安堵。

1584年長久手の合戦に功あり、1589年甲斐八代郡内において領地を与えられた。

1590年小田原陣のとき、5月平岩親吉に従い武蔵岩槻城を攻めて軍功をたてた。

1591年領地を改められ、武蔵国比企・賀美郡内に与えられた。

陸奥九戸の争乱、関ヶ原の合戦、大坂両陣にも従軍、伏見城の大番になった。

1617年5月、1610石を与えられた。



河窪信雄(主膳・左馬・越前守)1601-1639

信俊の子。徳川家康に仕え、大坂両陣に従軍。

1626年家督を継ぎ、御使番、御書院番組頭。

1633年上総国長柄・埴生両郡にて700石加増され、全て2700石を領した。のち御小姓組番頭となる。


武田信由(小法師丸・左馬允)

武田信虎の11子。豊臣家に仕えたというが、詳しいことは解っていない。


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