2月21日(日曜日晴れ


摂津国坐摩神社に参拝したと言うコメントをいただいた方、間違えて消してしまいましたm(_ _ )mもう一度コメント宜しくですσ(^_^;)



最近引き籠りぎみ(別の言い方で、内勤の仕事)の勝頼です(w_-;

おかげで、最近『四郎勝頼の歴史ブログ』専門になっとるしσ(^_^;)ポリポリ

祇園行ってないなぁ~遠い空を見てる感じ

そろそろKちゃんに手紙しないと振られちゃうなぁハートブレイク

今月はずっとラブレター、無視してるからなぁ汗



甲斐武田氏総集編④武田信春~信守


武田信春(修理亮・伊豆守・陸奥守・信有) ? -1413

武田信成の子。1352年の笛吹峠の合戦に従軍。1353年兵を率いて上洛、足利尊氏と行動をともにしている。1355年には宮方の南軍が都留郡から勝沼付近に乱入してきたので、信春はこれを柏尾大善寺付近に迎え撃って戦った。その時、大善寺衆徒らに戦勝を祈願させた文書が残されている。

当時武家方についた勢力は、武田惣領家を中心に、小笠原氏・板垣氏・逸見氏らで、宮方についたのは、石和氏・岩崎氏・一条氏らと都留郡の豪族らで、信春が柏尾山に陣を敷いた時、石和氏らは右左口の七覚山円楽寺の衆徒らと結んで、これに激しく対抗していた。

信春がとくに1355年、1365年などに大善寺を庇護する文書を与えているのも、こうした寺門の対立を意識していたからである。

『円覚寺文書』には永徳年間(1381-83年)信春が甲斐守護であったことを記している。1373年信春は等々力郷万福寺に対して寺領禁制を出したが、その文書には「伊豆守信春」、1374年の『太平記』には「陸奥守武田信春」、同じく『鎌倉大草紙』には「陸奥守花峰入道」と記している。

『円覚寺文書』によると1385年頃、武田伊豆守信春が甲斐守護であったことが確認されている。1394年に没した父信成から甲斐守護を継承したが、国内は不安定な政情が続き、『慈徳院由緒』によれば、1413年2月、逸見氏の乱で千野城が落ち、信春は難を萩原山中の柳沢に逃れたが、同年10月23日山中で没したという。戦死とも伝える。この逸見氏は有直か?

南北朝期、甲斐国守護職を継いでいたと思われる一条氏・岩崎氏・石和氏が揃って南朝方というのは、武田信時流の信春と惣領職を争ったのかもしれない。


武田信満(二郎・安芸守・安芸入道) ? -1417

武田信春の子。甲斐守護。鎌倉府に出仕し、娘が上杉氏憲(禅秀)に嫁して憲方、持房、教朝を生んだ。

1416年の上杉禅秀の乱に、千葉兼胤、岩松満純らとともに禅秀の有力な縁族として鎌倉で反乱に加わった。

信満の戦闘は明らかでなく、帰国の時期も不明であるが、翌正月禅秀の滅亡後、家督を嫡子信重に譲り、山梨郡木賊山に退隠して恭順の意を表した。しかし鎌倉を回復した足利持氏の出仕命令に従わず正月下旬、持氏の将上杉憲宗の討伐にあって都留郡に戦い、逃れて2月6日木賊山に自殺した。

菩提寺は栖雲寺で法名は「棲雲寺殿明庵光公大居士」


武田信元(三郎・穴山満春・修理大夫・信濃守・陸奥守・空山)

武田信春の子。『武田系図』に、信満の弟満春について「満春四郎穴山修理大夫。又信元。応永24年兄自害之時入高野山。其後家督相続。号浄国院穴山」と見え、『浅羽本武田系図』にも「満春信濃守修理大夫改信元云々」と見え、満春・信元同人説が主張せられている。

信元が穴山氏を称していたことは『後鑑』所見見聞軍抄等に見え疑問の余地はない。上杉禅秀の乱には与しなかったが、兄信満の自殺後高野山に逃れ、剃髪して空山と号して閑居した。

鎌倉公方足利持氏は逸見有直の甲斐国守護補任を幕府に申請したが許されず、幕府は1418年2月以前に信元を守護に任命し、甥で信濃国守護の小笠原政康に帰国を援助させた。同年10月以前に入部を果たし、守護代に跡部駿河(明海)、景家父子を登用した。入部したのは甲斐国南部、下山辺と考えられ、信元は穴山氏を継いだ人なので、まず旧領の回復を企図したものと解釈される。

足利持氏も信元の守護職を認めて、鎌倉府に出仕させた。

守護在任中逸見有直を屈服できず、守護代跡部氏の専横があり、統治は安定しなかった。没年は1419年~1420年の間と推定されている。



吉田成春(刑部大輔・吉田光性入道)

武田信春の3子。吉田氏を称したが発祥は不明。


吉田信益

吉田成春の子。1445年6月に向岳寺に千野郷内の鹿子屋敷等を寄進。1448年には大檀那として梵鐘を寄進している。


下条信継(伊豆守・五郎武春)

武田信春の4子。信濃下条氏祖、伊豆守頼氏と同一人物の可能性も有るが確証は無い。


市部信久(七郎) 【常陸武田氏祖】         

武田信春の5子。山梨郡市部村より起こる。兄信満敗死後下総へ逃亡し、のち常陸国行方郡へ土着した。北浦町次木の円通寺に墓地が有るという。


武田信重(三郎・刑部大輔・光増坊道成) ? -1450

武田信満の長子。母は小山田弥三郎の女。

父の信満が上杉禅秀の乱に際し、これに党し自殺すると、剃髪して高野山に入り光増坊道成と号した。

叔父信元が死ぬと、幕府は新たに信重を守護に任命して入部させようとし、鎌倉府と交渉した。1421年の頃である。

鎌倉公方足利持氏は信重の甲斐守護、山入与義の常陸守護任命に同意しないばかりか、1422年10月には兵を出して山入与義を討滅してしまったから、将軍義持は怒り、翌1423年6月一方的に常陸守護に与義の子祐義、甲斐守護に信重を任命して補任状を出してしまった。しかし信重は固辞し続け、四国へ身を隠してしまった。

1428年将軍義持が急死すると、弟義教が将軍になると持氏と冷戦状態となった。

同年10月信重は駿河国佐野、沢田両郷を与えられ四国から召しだされた。

将軍義教は1432年摂津国溝株庄を与え信重を庇護している。

1435年3月、跡部氏が上京し密かに信重と会い忠誠を誓っている。

なかなか入国出来ない理由として、郡内の武田信長、河内の伊豆千代丸、北部の逸見氏、北巨摩郡の跡部氏という勢力分野が成立していたからだと考えられる。

1438年8月将軍義教は信濃守護小笠原政康に信重の帰国の援助を命令している。

帰国後持氏の征討軍に加わり、持氏、逸見有直を討った。

1440年3月下総の結城氏朝が持氏の遺児を奉じて挙兵した。信重も攻撃軍に加わり、1441年城を落とした。翌年逸見氏の反乱も平定した。

1450年(宝徳2年)11月24日に没したと言うのが通説になっているが、『一蓮寺過去帳』では宝徳3年となっている。

『東八代郡誌』には、境川辺りに勢力を持っていた黒坂太郎なるものを討伐しようと兵を率いて戦いを挑んだが、穴山伊豆守に背後を襲われ、小石沢の館を焼かれ、ついに前後の敵にかなわず宝徳2年11月24日、居館にほど近い所で自殺した、とある。高野賢彦氏は信重を敗死させた穴山伊豆守は信重の孫信懸と唱えている、が私は別人を考えている。ここでは私説を控えたい。この信懸は一時川田館に住んでおり、当時の穴山氏が強大だった証拠だと思える。

守護代跡部氏が信重を迎えに行った背景には、跡部氏VS伊豆千代丸・武田信長の主導権争いが有ったのであろう。

菩提寺は六角山成就院、法名は「成就院殿功岳道成大居士」


武田信長(八郎・右馬助)1400-1477 【上総武田氏】

武田信満の2子。武田信重の弟。『浅羽本武田系図』では長子となっている。

上杉禅秀の乱に父信満と加わり、1417年信満の自殺後、鎌倉公方足利持氏が援助する逸見有直と甲斐にて連戦する。

幕府が甲斐国守護に登用した武田信元は、甥信長の子伊豆千代丸を嗣子としたから、信長の戦いは、叔父と実子を援助し、鎌倉府に抗するものであった。

実子伊豆千代丸を助けるため、郡内の加藤入道梵玄を従え、国内を転戦してしばしば逸見氏らと戦った。

信長叛逆の報が鎌倉に達すると、鎌倉府は1421年9月吉見伊予守を、また1425年8月上杉淡路守房実を信長討伐に発向させたが、両度とも合戦にまでは至らなかった。しかし数年にわたる信長の奮戦によって、逸見氏もついに敗れ、討死したり自害したりするものが多く、残党が鎌倉府に愁訴した。持氏は大いに怒り、1426年一色刑部大輔持家を大将として1千騎で甲州へ向かわせたが、打ち負かされ、6月ついに持氏自身が親征することになった。

持氏は鶴川・小西と軍を進めて7月15日には大月に本陣を張った。信長も猿橋まで馳向かい防戦に努めたが、武蔵白旗一揆が甲州に乱入したため、8月25日ついに持氏の軍門に降り、鎌倉に来て鎌倉府に出仕する身となった。

1432年4月28日、『相模大山寺造営奉加帳写』の9人のうち、信長は公方持氏、管領上杉憲実の次に署名しており、上位の序列がうかがえる。

しかし翌1433年3月1日、甲斐守護代跡部氏を排し伊豆千代丸を援助するために、鎌倉を出奔して持氏の怒りをかった。これより先、幕府と鎌倉府との間に、守護任命をめぐって複雑な交渉が行われたが、持氏は降伏した信長を鎌倉へ出仕させる条件で、幕府が強く推す武田信重の就任を認めた。

信長の鎌倉退去は、持氏への背反となった。当時甲斐には輪宝一揆と日一揆に結集する国人勢力があり、前者は守護代跡部氏と結び、後者は伊豆千代丸・信長に与した。しかし信長に昔日の勢いなく、同年4月29日荒河合戦に大敗し、伊豆千代丸の戦死も推定され、日一揆の吉田・矢作・河内・仁勝寺・山県・柳沢・山寺・長塚・中条等が討死した。信長は駿河へ逃れた。

幕府は持氏を牽制するために信長を保護し、持氏が鎌倉府分国外の駿河に出兵する計画を非難した。

1434年再び甲斐に入り跡部氏と戦ったが挽回できず、駿河から京へ逃れた。跡部氏が武田信重の帰国を容認した背景には、信長との抗争があったと考えられる。

1440年の結城城攻撃に加わり、落城の時に分捕り功名をあげ、祖父武田信春の旧領相模曾比・千津島を与えられた。

1449年9月、足利成氏が鎌倉公方に帰ると出仕して近習に重用され、以後甲斐の政情には関与せず、一貫して成氏に忠勤した。

1451年4月の長尾景仲・太田資清の乱で相模七沢に逃れた管領上杉憲忠を帰参させる使者となり、1454年12月27日に成氏の命をうけて憲忠を鎌倉に奇襲して殺した。ついで翌1455年正月相模島河原で上杉軍を撃破し、正月22日の武蔵分倍河原合戦にも参陣し、各地を転戦する。同年12月長尾景仲の居城武蔵騎西城を攻め落とした。

1456年古河公方成氏の命により、上総国に侵入。真里谷、庁南の2城を拠点として、周准、天羽、望陀、畔蒜、市原、海上、夷隅、埴生、長柄の9郡をたちまち押領した。のち久留里城、佐是城、峰上城を築き、久留里には3子信房、佐是には孫の国信、峰上には2子信武が入った。信長の入部は成氏方と上杉方に分裂した千葉氏へ対処して配置されたのであろう。

伊豆千代丸を上総武田2代信高とする説もある。


武田伊豆千代丸 ? -1433?

武田信満の2子信長の子。母は土屋宗貞の女。

武田信元の嗣子となり家督を相続するも守護代跡部駿河、同上野は伊豆千代丸に従わず、父信長は跡部親子と度々合戦に及ぶが敗れ京都へ走る。その時に伊豆千代丸戦死という。『系図纂要』では永享5(1433)年4月29日死とある。

伊豆千代丸が後継者となったのは信元の死直後の1419~20年と推定される。

伊豆千代丸を上総武田氏2代信高とする説もある。

「伊豆千代丸穴山 信高」とある系図もあるが、伊豆千代丸が信高なら、まず信元の跡を継いでいるが、それは穴山氏の名跡を継いだだけで、武田氏を相続した事にならないという事である。


仁勝寺宗印 ? -1433

武田信満の3子。仁勝寺に住む。1433年の輪宝一揆(守護代跡部氏・逸見一族側)と日一揆(武田信長側)の戦いで日一揆側について戦死している。この仁勝寺の開基は兄信長である。


江草信康(兵庫介)

武田信満の4子。北巨摩郡江草に屋敷を構えて江草氏を称した。獅子吼城主。


今井信景(左馬助)                     

武田信満の5子。山梨郡今井に住みし、今井氏を称した。兄の信康没後跡を継ぎ獅子吼城主。『一蓮寺過去帳』には「文明5年11月26日 合戦討死 独阿 今井又八郎」とあり、この又八郎が信景と思われる。


今井信経(兵庫助・謹阿阿弥陀仏) ?ー1490

今井信景の子。


今井信甫(左馬助・相模守)

『円光院武田氏系図』に従い今井信経の長子。『甲斐国誌』では今井信カタの2子となっている。勝沼信友戦死後、勝沼に入部した。


今井虎甫(中務大輔)

『円光院武田氏系図』に従い今井信経の2子。1541年の武田八幡宮の棟札に見える。『甲斐国誌』では信カタの3子となっている。


今井信慶(八郎・厳阿弥陀仏)

今井信経の3子。


今井信カタ(大蔵大輔・眼阿) ?ー1494

今井信経の4子。武田信縄・信恵の争いには、信恵方について、1494年3月討死した。


今井信房(右衛門佐) ?ー1515

信カタの子。府中今井氏の系統。武田信虎に属し、常に叛乱を起こしていた同族浦逸見今井氏とは一線を画す。1515年の大井信達攻めで戦死した。


逸見信是(浦兵庫・逸見兵庫)

今井信慶の子。1509年諏訪頼満に攻められ、子信隣の妻女に頼満の娘を迎えることで和睦したとされる。1519年武田信虎と戦う。翌年6月信虎に降参する。逸見郷に拠り逸見氏を称する。府中(表)今井氏に対して浦(裏)今井氏と呼称されたことから、裏兵庫と俗称されている。


今井平三 ?ー1509

今井信慶の2子。1509年諏訪氏に攻められ討死。


矢戸源三 ?ー1509

今井信慶の3子。1509年諏訪氏に攻められ討死。


逸見信意(播磨守・武田彦六信意・今井兵庫助信元)

今井信慶の4子。『慈恩寺武田氏系図』では信是の子になっている。今井兵庫、浦兵庫、浦信元と同一人と思われる。1531年栗原兵庫・飫富兵部らと御岳に拠り、諏訪頼満を頼り武田信虎と戦うが、栗原兵庫ら討死し大敗した。翌年9月信濃勢を頼み、浦の城に籠もり信虎と戦うが敗れて降参した。浦の城に籠もったり、逸見郷に拠って逸見氏を称した事をみるに、信是の子と思える。


今井信良(安芸守・信長)

『甲斐国誌』では信甫の子。


今井信隣(山城守)

『甲斐国誌』では信是の子。諏訪頼満の娘を妻に迎えたとされる。


今井貞恵(越前守・武田越前守)

『円光院武田氏系図』では信是の子。高野山成慶院『武田家日坏帳』に「甲州府中今井越前守貞恵為 空玄禅定門逆修 永禄七年三月廿一日」と有り、『円光院武田氏系図』に見える武田越前守と同一人物と考えられる。今井越前守は弘治、永禄にかけて武田晴信の側近だったと思われる。


今井信昌(刑部左衛門)

信隣の子。武田晴信に仕え、旗本武者奉行。


今井信衡(新左衛門尉)

信隣の子か?武田氏に仕える。山梨郡今井郷の領主。旗本武者奉行。1565年の『大宮神馬奉納記』に署判が見える。


今井信俊(九兵衛・昌義)1522ー1595

信昌の子。武田氏に仕える。使番十二人衆を経て足軽大将衆足軽十人持ちとなった。1582年3月武田家滅亡後、徳川家康に仕え、のち駿河田中城代を勤めた。


今井勝澄(七右衛門) ?ー1584

信俊の子。徳川家康に仕え、長久手の合戦で戦死した。


高尾昌俊(惣十郎)1556ー1593

今井信俊の子。高尾伊賀守の養子となった。徳川家康に仕え、長久手の合戦に従軍。


※今井氏については昨年新説が発表されたが、今回は手直しせずそのまま記載しました。



巨瀬村信賢(宮内少輔)

武田信満の6子。応永年間(1394-1427年)古代豪族の巨瀬村氏を復活させ、巨瀬村に館を構え、巨瀬村氏を称した。

民部少輔信乗---民部少輔道甲(1526年没)--左衛門佐信里(1563年没)--中沢左兵衛佐信忠(1614年没)と続いた。


倉科信広(治部少輔)

武田信満の7子。東山梨郡倉科に屋敷を構え倉科氏を称した。


山宮信安(民部少輔)

武田信満の8子。山宮氏を称したが発祥地不明。


武田信重の3子永信が東山梨郡小佐手に住み小佐手氏を称した。


小佐手信行(善九郎・宮内少輔)

小佐手永信の子。


小佐手信広(新六郎) ?-1569

小佐手信行の子。武田信玄に仕え、1569年駿河薩捶峠で討死。


小佐手信房(新八郎)1565-1628

小佐手信広の子。武田勝頼滅亡後、1590年徳川家康関東入国の時に家康に仕える。蔵米200俵。


武田信守(弥三郎・刑部大輔) ?-1455

武田信重の子。甲斐守護。小石和の館が穴山伊豆守に攻められ陥ちたあと、八代に移住、館を構えた。菩提寺は能成寺で法名は「能成寺殿勇山健公大居士」


※穴山氏については、昨年論文が発表されていますが、今回はそれには触れず前回記載したままにします。


穴山信介 ?-1450

武田信重の2子。穴山満春の跡を継ぎ、穴山氏を称した。信介は1450年3月19日の没とあるが、父信重もこの年の11月24日、穴山伊豆守に攻められ自害している。この伊豆守は宝徳年間(1449-51年)小山城主であり、永正年間(1504-20年)は穴山信永の居城であった。穴山氏が信介の代に南部に入ったのは確実であるが、信介の子信縣は山梨郡川田に住んでいたようである。武田信長、伊豆千代丸に対抗して信重が穴山氏を継がせたと考えられる。


穴山信懸(弥九郎・兵部少輔・刑部大輔・伊豆守・道義入道・臥竜)?-1513

穴山信介の子。南部に居館を構え、武田信昌・信縄・信虎とは良好な関係を保った。近年娘が武田信昌の室で、信縄の母ではないかとされている。今川氏親や伊勢宗瑞とも良好な関係を築いていた。

『妙法寺記』では1513年子の清五郎に討たれたとあり、『甲斐国志』によれば1491年3月20日没となってる。1513年、今川氏と結ぶか武田氏との関係を強めるかで内紛が起こったらしく、信懸は子の清五郎に暗殺されたようだ。

高野賢彦氏はこの清五郎を宗九郎信永と考えられ、信懸は武田信重を敗死させた穴山伊豆守と考えておられる。


穴山信辰(弥九郎・信俊)

穴山信介の子。信懸の弟。


小山信永(宗九郎・伊予守・信采)?-1523

穴山信懸の子。小山城主。1523年花鳥山で南部氏と戦い、敗れて小山城に立て籠もり、浄楽寺で自刃した。秋山敬氏作成の系図では2子となってる。


穴山甲斐守(義貞)?-1531

穴山信懸の子。実名については信綱、信風、など諸説が有るが確認できない。信永の弟か?秋山敬氏作成の系図では長子となっている。父信懸が兄弟にあたる清五郎に暗殺されると、家督を継いだ。恐らく清五郎を粛清して実権を掌握したのであろう。以後今川氏に従属するが、1521年武田信虎に降伏した。


穴山信堯(刑部大輔)

穴山信懸の2子。秋山敬氏作成の系図では3子となっている。


穴山信豊(彦太郎・対馬守)?-1530

穴山甲斐守の子。1530年小田原北条氏に討たれる。


穴山信友(伊豆守・武田伊豆守・幡龍斎)1506-1560

穴山甲斐守の子。甲斐国河内領南部・下山の領主。1521年父甲斐守が武田信虎に降伏した際に、駿河から帰国を命じられた武田八郎は信友のことを指す可能性が高い。天文年間の初めに武田信虎の女を正室に迎え、河内領の支配が磐石なものになって本拠地を巨摩郡南部から下山に移転させたと思われる。1542年信濃の諏訪氏との戦いに功があった。南松院蔵『大般若経』天文16(1547)年の奥書に「大檀那甲州河内下山居住武田伊豆守源信友」と見える。信友の時代に河内地方を統一したと思われる。武田信玄時代は今川氏との外交に重きをなした。


穴山信君(勝千代・彦六・左衛門大夫・玄蕃頭・陸奥守・梅雪斎不白)1541-1582

穴山信友の子。母は武田信虎の女。父信友没後家督を継ぎ甲斐下山に居館し、河内領を支配した。武田信玄・勝頼2代に仕え、その領国経営に参画したが、居地が駿河往還上の要地を占め、かつ今川氏とも婚姻関係にあったため(今川義元妻と信君母は姉妹)、特に駿河政策に貢献した。1575年武田方の属城駿河江尻城主となり庵原郡一帯を兼領した。

川中島、三方ヶ原、長篠などの緒戦に参加。信玄・勝頼の本陣を固めた。

永禄中は駿河興津城、長篠の戦後江尻城を守った。江尻に入城してからは大改築に着手し、武田方の駿河の押さえとして独自の領国経営を展開し、江尻の城下町を造って商人を招き商業政策を推進した。

1582年3月、武田家滅亡の直前に徳川家康に降り、家康を先導し駿河河内口から甲斐市川口へ乱入した。

武田家滅亡後家康に同行して安土に織田信長を訪ね、旧領を安堵された。この時和泉堺を見物中に信長が討たれ、危険を感じた家康は海路で、信君は陸路で難を避けようとしたが、山城国宇治田原で土民のため殺された。

信君は父と2代にわたり武田惣領家と重縁を結び、同時に領内に強い支配権を維持し、武田氏の全盛時代にも完全には直領化し得ず、小山田氏の郡内領と同じく二重の支配構造を許す再支配地域をなしていた。

武田氏を公称し、直臣・奉行・代官などの家臣組織を持ち、被官や寺社に私領を与えてこれを統制し、また新田開発・検地を行い伝馬制度を整備した。

勝頼政権内では、武田信豊との権力争いに敗れ1581年の勝頼の娘と信豊の嫡子との婚約が決まった頃から、家康を通じて信長と接触を図るようになったらしい。

武田氏滅亡に際し、信君は自ら武田家の再興をはかった。


穴山信邦(彦八郎) ?-1566

穴山信友の子。『身延過去帳』に自害とある。


穴山彦九郎 1547-1559

穴山信友の3子。


武田信治(勝千代)1572-1587

穴山信君の子。母は武田信玄の女。父の死後徳川家康に武田氏を名乗るのを許された。穂坂常陸介・有泉大学等老臣の補佐を受けたが、1587年6月死去し穴山氏は断絶した。


武田信吉(万千代・七郎)1583-1603

徳川家康の5子。母は甲斐の秋山虎康の女。1588年穴山信君の子信治の没後を継ぎ、武田氏を称する。1590年下総小金城主となり、穴山氏の旧臣を移封させ、3万石を領す。1592年下総佐倉10万石移封し、関ヶ原の役には江戸城の留守居役。

1602年常陸水戸25万石に移封するが、翌年病死した。室は木下勝俊の女。


小佐手永信(九郎)

武田信重の3子。東山梨郡小佐手に住み小佐手氏を称した。

『寛政重修諸家譜』には信濃川中島で戦死とある。


八代基経(伊予守・基信)

武田信重の4子。八代氏を称した。


下曾根賢信(中務大輔)

武田信重の5子。東八代郡下曽根に館を構え下曽根氏を称した。


金丸光重(右衛門尉)

武田信重の12子。


金丸藤次(伊賀守)1451-1519

一色藤直の子。光重の養子となる。一色藤直は一色詮範の子範貞の後裔範次の子。武田信昌・信縄に仕えた。長盛院『寺記』に「金丸伊賀守光信開基」とある。


金丸虎嗣(若狭守) ?-1536

金丸藤次の子。武田信虎に仕えた。


金丸虎義(筑前守)1489-1569

金丸虎嗣の子。武田信虎・信玄に仕え、200騎の侍大将。信玄の傳役をつとめたという。伊那攻め、佐久攻略戦に参加。


金丸昌直(平三郎)1540-1560

金丸虎義の長子。武田信玄奥近習。武田信廉の被官落合彦助に殺れた。


土屋昌次(平八郎・右衛門尉)1545-1575

金丸虎義の2子。土屋直村の跡を嗣ぐ。武田信玄・勝頼に仕える。1561年8月の川中島合戦で初陣。信玄の奥近習に属した。1569年10月の三増峠の合戦で浅利信種が討死したので、その同心70騎と駿河先方衆30騎を付され侍大将となった。

1572年の三方が原の戦いでは徳川家康の家臣鳥居四郎左衛門を討ち取った。

1575年長篠合戦で戦死。


秋山昌詮(左衛門)

金丸虎義の3子。秋山信友の跡を継ぐ。29歳で病死という。


金丸定光(助六郎・昌義) ?-1582

金丸虎義の4子。虎義の跡を継いだ。武田信玄・勝頼に仕え、侍大将。1582年天目山で戦死。


土屋昌春(左馬助) ?-1607

金丸定光の子。土屋氏を称する。結城秀康に仕え、越前大野城代3万5千石。

1607年秀康に殉じた。


土屋忠次(主殿助) ?-1609

土屋昌春の子。父殉死後5千石を加増され家督を継ぐ。


土屋昌恒(惣三・右衛門尉) ?-1582

金丸虎義の5子。駿河先方衆土屋直規の婿養子となり、跡を継ぎ土屋氏を称した。武田勝頼に仕え、侍大将。兄土屋昌次戦死後、この土屋氏も継いだ。1582年天目山で戦死。


金丸惣八郎(正直)1557-1619

金丸虎義の6子。武田信勝の小姓頭。武田家滅亡後徳川家康に仕えた。


秋山源三 1562-1582

金丸虎義の7子。兄秋山昌詮の跡を継ぎ、秋山氏を称した。武田勝頼に仕えた。

1582年天目山で戦死。


土屋忠直(平八郎・民部少輔)1578-1612

土屋昌恒の子。母は岡部丹波守女。武田家滅亡後駿河国へ落ち、1589年徳川家康に見いだされ、阿茶の局に育てさせた。その後徳川秀忠の側衆として仕え、秀忠から一字を与えられ忠直と称した。関ヶ原合戦に従軍、1602年上総国久留里城2万石を与えられた。


土屋利直(平八郎・民部少輔)1607-1675

土屋忠直の長子。父の跡を継ぎ久留里城2万石。


土屋数直(辰之助・采女・定直・大和守・但馬守)1608-1679

土屋忠直の2子。母は森川金右衛門氏俊の女。1616年徳川家光の小姓となる。

1622年近習、翌年御膳番、1624年従五位下大和守に任じられ、500俵を受けた。1648年小姓組番頭となり但馬守と改めた。1657年常陸国宍戸に5千石を与えられ、1662年若年寄となり、武蔵国越谷で5千石加増、1664年武蔵・相模両国内で5千石加増された。翌年老中に進み従四位下となる。1666年常陸・上総・武蔵・下野国内で2万石加増、1669年には土浦城主となり常陸・武蔵国内で1万石を加増され合計4万5千石を領した。翌年には侍従に進んだ。検地・地溝開発・耕地改良など領内経営に意を用い、また古学・兵学をも通じ山鹿素行と親交があった。子の政直は30余年老中を勤め9万5千石を領した。


土屋之直(兵部少輔)1611-1679

土屋忠直の3子。旗本となる。





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