2月15日(月曜日雨


甲斐武田氏総集編②武田有義・信光~信政兄弟


一条忠頼(一条二郎) ?-1184

武田信義長子。西山梨郡一条小山に館を構え、一条氏を称した。源平争乱に際し父信義に従い武功を立てたが、その威勢が強大なことから源頼朝に1184年6月16日に殺された。『吾妻鏡』によれば、この日営中に参じた忠頼は、宿老御家人列座の中、酒宴のさなかに工藤祐経、小山田有重父子及び天野遠景らによって殺されたという。この時点では忠頼が甲斐源氏の棟梁と思われ、頼朝が甲斐源氏の勢力を排除しようとしたものである。


飯室朝忠(飯室太郎・伊予冠者) ?-1184

一条忠頼長子。父と同じく殺された。


甘利行忠(甘利二郎) ?-1184

一条忠頼の2子。北巨摩郡甘利に館を構え甘利氏を称した。父と共に源頼朝に従い活躍したが、1184年父と共に謀殺された。また、父暗殺後、鎌倉の一条館で捕らえられ、常陸国に配流され、3年後ここで斬られたという説もある。


甘利行義

甘利行忠の子。行義は助命され、甘利氏の祖となり後世武田信玄・勝頼時代に活躍した甘利虎泰、昌忠、信康は行義の子孫である。


上条頼安

甘利行忠の子。助命され、上条氏の祖となった。


板垣兼信(板垣三郎)

武田信義2子。甲斐山梨郡板垣に館えを構え、板垣氏を称した。1184年2月源範頼に従い一ノ谷の合戦に参加。3月には土肥実平とともに平家追討使として西海に赴くが、実平と追討軍の指揮権をめぐって争い、源頼朝の叱責を受ける。太皇太后宮御領駿河大津御厨地頭であった1189年5月、宮の勅勘を蒙り、翌年7月にはその科によって隠岐国配流の官符を受け、また兼帯する遠江質呂庄地頭職を停止された。

武田信虎、信玄の時代に活躍した板垣駿河守信方は兼信の子孫である。



武田有義(左兵衛尉) ? -1200?

武田信義の3子。信義の兄光長の子という説も有る。広瀬広一氏は「有義が信義の実子たるか否かは疑あり、彼は逸見光長系統にて塩部氏と関係あり、もと石和族の血族なるべし、信義の男といふは統領職たるにより、斯く称するものならん」との理解を示している。

内大臣平重盛に仕え、太刀持ちを勤めた。このことから信義の嫡子となったようだ。のち源頼朝に従う。

1184年8月、源範頼に従い平家追討に参加。範頼軍では小山朝政の次に位置していた。『吾妻鏡』1188年3月条には「一門棟梁也」とみえ、翌年7月の奥州征伐出兵軍を見ても「武田兵衛尉有義」が甲斐源氏の最初にあることや、その他の事例を見ても武田信光の上位にあり、一条忠頼の跡を継いだのが有義と解る。

1190年11月の頼朝上洛では父信義の次の29番に所属し、石清水八幡の参詣にも随兵を勤め、2度目の上洛に際しても随兵を勤めている。平重盛に仕えたことから『吾妻鏡』には将軍家の諸行事に有義が常に随兵として名を連ねている。

有義逐電前には弟信光は伊沢五郎と書かれているが、のちには武田五郎信光と武田姓を称するようになる。有義逐電を境に武田の惣領は有義から信光に移ったのであろう。

有義は嫡流として平家に仕え、やがて頼朝に仕えるようになったが、信光は頼朝の側近として仕え、やがて有義を追い落として武田家を継承することになったのであろう。

1200年、梶原景時討死後自刃か?『吾妻鏡』1200年正月28日条によると、弟信光に襲撃され行方をくらましたとある。


吉田有信(吉田太郎)

武田有義長子。


萬為信盛(萬為二郎)

武田有義2子。


吉田有朝(吉田小太郎)

吉田有信長子。


小松時信(小松六郎)

吉田有信2子。山梨郡小松に住み小松氏を称した。


吉田有綱(又太郎)

吉田有朝の子。


吉田有政(孫六)

吉田有綱の子。有政の子が逸見有直とする推定があるが、その根拠は有の字の継続性以外なく、それほど強い論拠とはいえない。

秋山敬氏は、安芸逸見氏からの流れの者と考えておられる。(『安芸逸見氏の系譜』)


武田信光(石和五郎・伊豆守・光蓮) 1162-1248

武田信義5子。安芸守護。甲斐も守護だったと思われる。将軍に近待し鎌倉の名越に館を構えていた。射芸の師としても知られ、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆と並んで、弓馬の四天王と称せられた。

1180年父信義の挙兵に参加。その後1189年源頼朝の奥州進発に参加。この時期信光は安芸守護職だったと考えられている。その後守護職は離れたらしく、承久の変後復職したようである。

1184年1月、木曽義仲を討ち、2月に平氏を一ノ谷に討ち、さらに長門・安芸・四国に転戦して戦功を積んだ。

源頼朝は『吾妻鏡』によれば、甲斐源氏ではこの石和五郎信光と加賀美次郎長清をことのほか信頼していた記事が見える。又同じく『吾妻鏡』によれば、1200年8月25日、兄武田有義が卒すると、武田の宗家を信光が継ぐことになり、石和五郎を改め、武田信光となったと記している。

承久の変には東山道の将として5万余騎を従えた。乱の首謀者の1人藤原光親を籠坂峠で斬罪にした。

1219年1月、源実朝が右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮詣での随兵として小笠原長清とともに先頭で馬を並べた。

1239年出家し武田入道光蓮と称した。1254年8月16日、鶴岡八幡宮の馬場で流鏑馬があり、「二番武田伊豆入道信光、射手同五郎七郎」と見える。菩提寺は伊豆国韮山の金龍山信光寺と云われ、甲斐国での菩提寺は曹洞宗金竜山信光寺。

開創は1200年以降、信光が武田家を継いでからである。最初は真言宗だった。

法名は「信光殿源翁本公大居士」


黒坂朝信(太郎)

武田信光の長子。東八代郡黒坂に屋敷を構えて黒坂氏を称した。『尊卑分脈』に「弓上手」と書かれているが、早死にしたようだ。承久の変に参加していないので、これまでには没したようだ。


武田信忠(悪三郎)  

武田信光の2子。1213年の和田義盛の乱に際し、父信光と共に幕府方につき参戦した。『吾妻鏡』によれば、幕府参陣の途上、武田父子が義盛の子朝比奈義秀と遭った際、父の信光に従って戦おうとした信忠の孝勇に感じて、義秀は戦わずに去ったという。承久の変にも活躍。

1241年12月父信光より義絶された。原因は不明である。『石和町誌』によれば「・・・少しでも危険を減らすために、義絶という形で信忠との関係を絶つことによって、武田の安泰を図ろうとしたと考えることができよう」とある。義絶された信忠は『武田源氏一流系図』によれば、「高信と改む。子孫は紀州熊野八庄司のうちの湯川庄司」とある。おそらく執権北条泰時に湯川庄を与えられたのであろう。


武田家弘(武田太郎)

武田信忠長子。『紀州武田系図』では武田九郎家房とし、清光の子奈古義行の孫となっている。家房と信忠は清光から数えて一応同じ段にいる。すなわちどちらも清光の曾孫である。


湯川範長(二郎)

武田家弘長子。紀伊国日高郡湯川に住み湯川氏を称した。


御本師房(三郎)

武田家弘2子。土佐国へ移ったか?


武田弘俊(四郎)

武田家弘3子。


湯川忠長(武田三郎・湯河庄司)

湯川範長3子。『紀州武田系図』に「武田範長の子忠長、湯河庄司、本宮住」とみえる。芳養内羽位に館を構える。忠長に関し、甲斐国の生まれで新羅三郎義光の曾孫義行から数えて六代目に当たり、1229年に紀州熊野にやってきて、道湯川に落ち着き居住したという。これによると奈古氏の流れとなる。

山賊退治の恩賞として、六波羅探題から牟婁郡一円の地を賜り、この地を治めるために、道湯川から芳養の内海に進出し、館を構えた(内羽位城)。ここに湯川庄司父娘を迎え、その娘を妻とし、湯川三郎忠長と改称したと伝える。ここに信忠流湯川庄司と奈古氏流とが混じり合ったと推察する。


湯川光長

忠長の子。芳養荘に定着。さらに堅固なものとする為、土井山城、横手山城、曾和城、土井城、峰山城を築き、各々家臣を置き守らせた。


湯川光春(武田七郎太郎か?詮直、詮光か?)

湯川光長の子。南北朝期、牟婁地方全体を統治するため、有田、日高、牟婁の中央に位置する日高への進出を試み、まず御坊に亀山城を築いた。以来日高、有田、牟婁諸郡に勢力を拡張した。又熊野街道から中辺路街道と大辺路街道とに分かれる要衝の地に泊城を築き、領地をいっそう堅固なものとした。1348年10月付けの佐々五郎次郎友行軍忠状に武田七郎太郎の名が見える。この頃亀山城を築城しているので、光春に当てはまるのではないか。


湯川宗春

湯川光春の子。亀山城主。


湯川職光

湯川宗春の子。亀山城主。


湯川光清

湯川職光の子。亀山城主。


湯川光英

湯川光清の子。亀山城主。


湯川政直

湯川光英の子。亀山城主。


湯川政吉

湯川政直の子。亀山城主。


湯川政春(宮内少輔)

湯川政吉の子。亀山城主。


湯川直光(民部少輔) ? -1562

湯川政春の子。1549年亀山城の東南麓に館を築き、これに移った(小松原土居)。勢力を有田地方に拡げ、守護畠山氏も侵し事実上畠山氏の許紀伊国守護代となった。1559年河内守護代となったが、1562年三好長慶と河内で戦い、教興寺で討死した。直光は連歌をよくし、宗祇とも親好があったといわれている。


湯川帯刀 ? -1562

湯川政春の子。1562年兄直光と共に討死した。


湯川教春

湯川政春の子。泊城主。1585年豊臣秀吉に攻められ、亀山から逃れた直春を匿ったが、杉若越後守に攻められ落城した。


湯川直春(中務少輔) ?-1586?

湯川直光の子。1585年手取城主で娘婿の玉置直和が、豊臣秀吉に通じたため、これを討った(坂ノ瀬合戦)。石山本願寺を支援し、同年豊臣秀吉の紀州討伐に降伏、翌年大和郡山へ羽柴秀長を訪ねた際、毒殺されたという。


湯川弘春

湯川直光の子。兄直春が築いた天路山城主。


祐存(湯川信春・唯可)

湯川直光の子。1532年父直光は吉原に真宗道場(吉原坊舎)を建立、信春を入寺させた。信春は出家して唯可と称し、石山本願寺の証如に会って一宇建立寄進の事を報告、証如から祐存の名を与えられ、吉原坊舎の称を許された。以後吉原坊舎は湯川氏の私坊から本願寺直属となった。


湯川秀光(太郎五郎・丹波守・光春)

湯川直春の子。豊臣秀吉の本領安堵されたが、関ヶ原合戦で西軍に属したため所領を没収された。のち大坂城に籠城。さらに福島正則に仕えた。その後安芸浅野氏に仕え3千石。宮島奉行を務めた。


武田信政(小五郎・伊予守・若狭守・安芸守) ?-1265

武田信光3子。母は『甲斐国誌』によれば宇都宮氏。守護となった証拠なし。

『吾妻鏡』には1195年8月の流鏑馬射手16騎の一人に、あるいは1219年の将軍頼経の関東下向の随兵にもその名をとどめている。また承久の変に参加、大井戸の渡しの戦いで活躍している。

『明月紀』によると1235年6月、石清水八幡宮神人と、興福寺僧徒の闘争があった時、六波羅は武田信政・宇都宮泰綱を遣わして鎮圧させ、大住荘官らを捕らえたことが見える。

1265年1月6日没。菩提寺は不明。一蓮寺の法名は眼阿弥陀仏。


一条信長(一条六郎・武田六郎)

武田信光4子。伯父一条忠頼の名を襲って一条信長と称した。兄信政の後武田氏惣領の地位を一時継いだ。信政の系統は安芸に移住し、信長が甲斐に残り守護となったか?

信長は幼少のころから弓馬の達者として知られている。『吾妻鏡』の1223年から1241年まで、鎌倉における射手、又は随兵として登場する。すなわち1223年1月、1230年1月の弓始の射手、1229年10月の流鏑馬の射手など全ての射芸に名を連ねている。

1238年6月5日将軍藤原頼経が将士を従えて春日社に参詣した折り、その行列に随兵している。

1254年7月に武田八幡宮に大般若経600巻を寄進、それには「願主源信長」と署名している。


武田義長(一条三郎)

一条信長の長子。1271年4月27日付けの北条時宗下文による「甘利庄南方地頭職」が武田三郎入道妙意に安堵されており、この人物は三郎義長でないかと推定されている。


一条頼長(一条四郎)

一条信長の2子。


一条信経(一条八郎)

一条信長の3子。『寛政譜』に楯無相伝とある。


高畠信行(一条九郎)

一条信長末子。


一条時信(一条源八・甲斐守) ?-1321

一条信経の子。甲斐守護か?『尊卑分脈』にははっきりと甲斐国守護とある。『寛政譜』に楯無相伝とある。一条小山に時宗道場(一蓮寺)を開創させた。


一条信重(一条与一) ?-1337

一条時信の長子。1335年11月、12月の足利尊氏と新田義貞との戦いでは、新田軍に従い足利尊氏と戦った。1337年新田軍に加わり金ヶ崎城に籠り、高師泰と戦ったが、3月恒良親王・新田義顕とともに自害した。


一条義行(一条与二)

一条時信の2子。『寛政譜』に楯無相伝とある。


一条信方(一条甲斐太郎) ?-1356

一条義行の子。『系図纂要』『一蓮寺領目録』に甲斐守とある。1339年と1354年に一蓮寺に寺領を寄進している。


一条頼行(弥二郎)

一条義行の子。


一条行貞(又三郎)

一条義行の子。


山高信武(太郎) ?-1383

一条信方の子。甲斐国巨摩郡山高に住み、山高氏を称した。


三浦貞連(六郎・左衛門尉)

一条時信の3子。『系図纂要』に会津の三浦政盛養子とある。同時代に三浦六郎左衛門貞連(?-1336)がいる。『横須賀系図』には安芸守時明の子とある。

系図に異説がある人物なので詳細は不明。〝三浦貞連〟という人物は、1335年足利尊氏の京都進攻の際これに従い、同年12月侍所であったことが確認されている。翌年正月三条河原の合戦の際、佐々木仲親と共に侍所として首実検を行っている。同月の賀茂河原の合戦で討死。


一条宗景(一条七郎)

一条時信の4子。


一条貞家(八郎) ?-1333

一条時信の5子。


青木時光(十郎) ?-1332

一条時信の6子。青木氏を称し、のちに柳沢・折井・山寺・横手などの武川衆が分出している。とりわけ戦国期には馬場美濃守信春が有名である。


一条信泰(八郎)

一条時信の子。


源光(青木別当)

一条時信の子。


信源(横根寺別当)

一条時信の子。


岩崎信隆(武田七郎)

武田信光の5子。甲斐国山梨東郡岩崎を本拠として、岩崎氏を称する。

『吾妻鏡』の1244年の正月の射手に武田七郎の名が見える。承久の変では父に従い活躍している。


武田政隆(七郎)

岩崎信隆の子。


武田時隆(七郎二郎)

岩崎信隆の2子。


岩崎信方(七郎三郎)

岩崎信隆の3子。信賢ともある。信隆の跡を継ぎ安芸国に住むとある。


岩崎貞隆(七郎五郎)

岩崎信隆の4子。


武田政嗣(七郎太郎)

武田政隆の子。


武田宗光(二郎五郎)

武田時隆の子。


岩崎信経(岩崎弥五郎)

岩崎貞経の子。


武田助政(太郎四郎・八郎)

武田政嗣の子。『大善寺文書』1326年の関東下知状に武田八郎助政の名が見える。


武田隆盛(弥四郎)

武田政嗣の2子。


岩崎盛信(十郎太郎・甲斐守)

武田政嗣の3子。『太平記』1336年に甲斐守盛正(盛信)、1352年甲斐前司、『天竜寺供養記』1345年武田甲斐守前司とそれぞれ見える。岩崎氏が一時、甲斐守であったことを示している。

1352年新田義宗との武蔵野合戦には武田信武に従っている。

岩崎氏は1458年の守護武田信昌と守護代跡部景家との合戦で一門の多くが討死し、滅んだと思われる。『一蓮寺過去帳』の岩崎小次郎、岩崎源次郎の名が見える。

しかし『王代記』には1468年岩崎小太郎(信光か?)討死が見える。実際にはこの合戦で岩崎氏は滅亡した。この頃岩崎氏は跡部氏の支配下にあった。


武田信貞(弥五郎・大膳大夫・伊豆守)

武田宗光の子。建武武者所。1337年新田・楠木軍が兵庫湊川で敗れると後醍醐天皇に従い比叡山へ逃れた。


武田時信(七郎二郎)

武田宗光の子。


武田信助(八郎次郎)

武田助政の子。

                                           

石橋信継(岩崎八郎)

武田信光の6子。石橋氏を称する。八代郡に石橋村がある。


馬淵信基(岩崎九郎)

武田信光の7子。馬淵氏を称するが発祥地は不明。間淵とも。


武田光信(十郎)

武田信光の8子。


山田光性

武田信光の9子。山田氏を称するが発祥地は不明。


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