2月26日(金曜日雨


昨日、体調悪くて20時に寝ちゃいました(゚_゚i)汗

駅のホームで2回めまいして叫び



武田義信(太郎)1538-1567

武田晴信の嫡子。母は三条公頼の女。

1552年駿河の今川義元の娘を妻に迎え、翌年元服し、12月将軍足利義輝から一字を授けられ、義信と名乗った。1556年将軍義輝に請い、三管領に準ぜられた。1554年に信濃伊那郡の知久氏攻略で初陣。1561年の信濃川中島の戦いで父と意見が対立し、以後不和となる。1565年謀反が発覚し幽閉され、翌々年自害する。

上野晴郎氏は『定本武田勝頼』の中で「義信叛逆事件は、義信を擁立した人々の性格に有するのでは無いかと考えられる。側近の飯富、曽根、長坂などは武田譜代の門葉であり、すなわち信玄が用いた新参者と譜代重臣の対立抗争が芽生えていたのではないかと思われる。このことは勝頼の時代にも見られる。」と述べられている。

『甲陽軍艦』には義信は異母弟諏訪勝頼が高遠城主に就任することに不満をもっていたとあり、勝頼のことを快く思っていなかったと記されている。

関東の戦国大名で死亡するまで家督を握り続けたのは、武田信玄と上杉謙信だけで、北条氏康、今川義元、伊達輝宗は壮年期に家督を嫡男に譲っている。あの織田信長ですら、信忠に家督を相続させ、安土城に移っている。

義信は勝頼が高遠城主になるのに不快に感じたのは、父信玄が家督を譲らず後継者として第一線に立つことの出来ない義信の焦燥をあらわした言動であろう。そして、信玄と義信との微妙な行き違いが、両者を決裂させたのではないだろうか。


武田義信の子供達について歴史的に裏づけの無い資料ですが、参考の為に記載しました。


岩間正成(六兵衛) ?-1647

『肥後読史総覧』によれば、父は武田義信、母は今川氏とある。

武田勝頼家臣、岩間大蔵左兵衛正頼の養子となり、勝頼滅亡時母に連れられて、小笠原秀政に仕える。1614年細川忠利室保春院(徳川秀忠養女)入輿の時、付き人を命じられ、豊前に入り300石を与えられる。この時岩間と改姓した。

まず義信に男子は居たのかはてなマーク 岩間正頼の養子となりながら、何故1614年に岩間氏を称したのかはてなマークそれまでは武田姓だったのかはてなマーク 勝頼家臣岩間正頼とは誰かはてなマーク 記録によれば、義信夫人は1567年10月、義信自害後の12月駿河へ送り帰された、とある。非常に不可思議な記事である。

『岩間家系譜』によれば、晴信の弟兵庫頭が義信の頼みを聞き、義信の子六千代丸を密かに養育し、武田六兵衛正成と名乗らせた。ところが兵庫頭が1575年三河鳶巣砦で討死、その後正成は若年であったので、母を召し連れて甲斐を立ち退き、奥平九八郎に頼んで塩治監物の猶子になった。その後監物は浪人し、今度は監物と正成2人共に小笠原秀政に仕えるようになり、監物は大坂陣で討死した。その後の正成については『肥後読史総覧』と同じである。すなわち豊前に入った時に岩間姓となったらしい。妻は伴周防守の女とある。


岩間正弘

正成の子。1647年300石を相続、後200石加増。家は幕末まで続いた。



吉川信義(彦太郎)

武田義信の子。母は吉川茂済の姪。茂済の家督を継ぐ。


尾股義直(九郎左衛門光義)

武田義信の子。義信は1567年に自害せず、武田家滅亡時の合戦で傷つき、子の光義と共に相模国津久井郷へ逃れようとしたが、義信は山中にて討死、光義だけが津久井郷に逃れ、尾股義直と名乗った。


海野信親(二郎・竜宝)1541-1582

武田晴信の2子。海野氏を称した。1568年上杉謙信に通じたとして誅せられた海野三河守幸貞の名跡を継いだ。母は三条公頼の女。産まれながらの盲人で30騎を預かり、父信玄が出陣した留守を守っていた。1582年3月11日弟勝頼の自刃を聞いて入明寺で自殺した。


武田信道(顕了道快)1574-1643

海野信親の子。母は穴山信君の女、のち甲府長延寺実了に再嫁した。

父が自殺したとき家臣に匿われて生き延び、徳川家康が甲斐を領するにおよんで甲府尊体寺で家康に拝謁、長延寺再興も許され僧となり、本願寺顕如より一字を与えられ顕了と称し甲府長延寺に住んだ。

1603年甲斐長延寺の住持となる。

1614年武田遺臣の大久保長安の死後叛逆の嫌疑で子信正と共に常陸笠間城に預けられる。子信正と共に1615年謀反の疑いが晴れないまま伊豆大島へ配流。1643年大島で没した。



武田信正1600-1675

武田信道の子。父の死後も許されず大島に留まっていたが、上野寛永寺の法親王・公海上人のとりなしなどもあり、将軍家綱の時の1663年3月将軍家光の十三回忌に許されて江戸に帰った。

磐城3万5千石を領していた内藤忠興に迎えられ、忠興の17歳になる娘を妻とした。



武田信興(虎之助・織部・信冬)1672-1738

武田信正の子。母は内藤忠興の女。

はじめ内藤忠興がもとににあり、父信正死するのち柳沢保明がもとに居する。

1700年柳沢吉保の推挙により、甲斐国八代郡500石を与えられ寄合旗本となった。翌年1月初めて将軍綱吉に拝謁し、9月表高家に列する。

1704年8月八代郡の領地を相模国大佐郡と高座郡内に移される。


武田信安(市之丞・主水)1707-1788

武田信興の子。母は大久保忠鎮の女。

1727年将軍吉宗に拝謁。1738年遺跡を継ぐ。

1760年高座郡の領地を同国陶綾郡の内に移される。

子の信用(亀喜久・大膳)が早死にし血統は絶える。名跡は柳沢信鴻の3子信明(安芸守)を迎えて存続。

1779年家督を信明に譲る。


武田信之(西保三郎)1542?-?

晴信の3子。母は三条公頼の女。早世



武田三郎(竹王丸・三郎・北条氏秀・上杉景虎)1552-1579

北条氏康の7子。1559年、『小田原衆所領役帳』の武蔵小机衆筆頭に三郎殿として1622貫文112文の役高で登録されている。甲駿相三国同盟の成立と共に甲斐へ赴き武田信玄の養子となり武田三郎と称した。1567年甲相断交により相模へ帰り大叔父北条幻庵の娘を娶る。1569年北条氏は氏政の次男国増丸を上杉謙信の養子とする約束で講和するが、1570年4月氏秀が国増丸の身代わりとされ、遠山康光等を伴い越後春日山城に移る。謙信は関東管領職を継がせる意図からか、氏秀に上杉の姓、景虎の前名を与え、姪(上杉景勝の妹)を娶らせ、城内二の丸に置いた。謙信急逝後、義兄景勝と相続を争い、1579年3月兄北条氏政・越後旧族等の後援を受け、前管領上杉憲政の御館に拠り抗戦。敗れて妻と9歳の子道満丸を失い、信濃脱出を企てるが、同24日越後国頸城郡鮫尾城に自害した。


武田勝頼(諏訪四郎・大膳大夫) 1546-1582

武田晴信の4子。母は諏訪頼重の女。

1562年、諏訪頼重の名跡を継ぎ、伊那郡代となり高遠城を与えられた。(最近では高遠諏訪氏の名跡を継いだといわれてる。)

1565年8月長兄義信の謀反事件が発覚し、ほかの家督を継承するものがなかったところから、俄に嗣子に定められ、11月織田信長の養女(実父は美濃苗木城主遠山勘太郎で信長の妹婿)を娶る。

永禄11年頃から父と行動をともにするようになり、代行として領内に文書を発給している。1570年4月、信玄は将軍義昭の側近、一色藤長に勝頼の任官と編諱を義昭から授けてもらうように頼んでいる。おそらく義昭から官途と編諱を授かって、諏訪勝頼の名乗りを、正式に武田宗家を継ぐに足る名前にしようとしたのであろう。しかし信長は義昭の動きを封じ、その自由の裁量を禁じたため、勝頼は官途を授けられず、受領名も無いままに終わった。もしかしたら武田昭信となってたかもしれなかった。

1571年信玄の後継者として武田館へ入る。1572年遠江二股城を攻め落とし、三方が原の戦いにも参戦した。

1574年2月東美濃に入り明智城を落とし、他の18ヵ所も攻め落とした。さらに7月には遠江高天神城を落とした。この年の6月に信長が上杉謙信に送った書状に『武田四郎は若輩であるが、信玄の掟をよく守って、表裏の駆け引きが大変うまく油断ならない・・・』とある。これが当時の一般的な勝頼評であろう。

1575年4月三河長篠城を囲み、5月には主力部隊は吉田城を囲んだ。同月設楽原の決戦で大敗。この決戦で信玄以来の宿老はほとんど戦死しているが、親族衆はほとんど無傷だった。このことは四男の勝頼に対して同列の朋輩意識しか無く、臣従の意識が無かったことを物語っている。従来この戦いは信長軍の3千丁の鉄砲の連射によって武田軍が壊滅したと説明されてたが、実は多くの戦死者は通説のように柵際で銃撃に倒れたのではなく、退却の最中に戦死している。このことは『信長記』に記されている。この合戦後、織田氏は東美濃を、徳川家康は遠江の諸城を奪回したが、勝頼は父信玄が駿河を占領したころの範図と、1574年に奪取した高天神城などの要衝は確保しぬき、信長・家康の侵攻を1580年まで食い止めた。

1576年4月には父信玄の葬儀を塩山恵林寺で営み、正式に家督を継承し、継目の安堵状を領内に多数発給した。この頃大膳大夫を称したと考えられる。そして家康に対抗するために、1577年1月妻に北条氏政の女を迎えた。しかし、1578年3月に後継者を指名しないまま上杉謙信が急死し、2人の養子が争った。1人は姉の子景勝、もう1人は北条氏政の弟景虎で、北条氏政は景虎を支援し、勝頼も同盟関係から景虎を助けた。北条軍は上野国の上杉勢と戦い、越後国攻撃は勝頼に任されたが、景勝と講和し戦線を離脱した。講和条約は①景勝から上野国西部の割譲。②景勝から黄金の贈答。③は勝頼の妹を景勝の正室として迎える。の3件だった。しかし同時に景勝と景虎の和睦を実現させようと努力をしていたが、その隙をついて家康が小山城、田中城を攻撃し始めたため、和睦交渉を諦め越後から引き揚げた。この結果景勝は景虎を滅亡させ、北条氏との関係が悪化した。こうして勝頼は東西から圧力を受け、次第に勢力を削がれていった。しかし、佐竹氏と結城氏と連携し、上野国方面では優位に立っていた。この時期(1579年末から80年にかけて)勝頼は東部戦線では大規模な攻勢をしかけて要衝上野国沼田城を陥落させ、上野国一国を手中に収める勢いだったが、西部戦線では守勢にたたされていた。それで1579年末以降、上杉景勝と共に信長と接触し、和睦の交渉をしている。すなわち上杉景勝と組んで信長との妥協を模索するというのが、この時期の勝頼の基本方針であったようだ。しかし信長は勝頼打倒を固く決意している。これは信長は信玄が突如友好関係を破ったことを深く恨み、それは勝頼の代になっても変わることはなかったのである。そして1581年3月に遠江高天神城が落城、11月には人質の織田勝長の送還を契機として信長の武田領への大規模な軍事行動を起こす事を決めたという。この高天神城攻略で信長は降伏の申し出を拒絶し、高天神衆が討って出てくるのを待ち、これを殲滅した。これは勝頼が城を見殺しにしたという体裁を取ることに信長はこだわっていた。これにより、武田氏の求心力は完全に失いほとんどの城が無血開城したのではないかと考えられる。しかし同年10月には駿河戸倉城の松田新六郎が、北条氏政から勝頼に乗り換えている。この松田氏の行動からすれば、信長の攻撃を受ける直前まで、勝頼は恃むに足りる存在であったことになる。必ずしも追い詰められた状況にはなかったのであり、滅亡が迫っているちいう認識は自他共に希薄であったと思われる。最後まで抵抗した高遠城は諏訪、伊那衆だった。これは武田勝頼に成りきれなくて、諏訪勝頼だった証拠では無いかと思われる。これについては柴辻俊六氏が『甲斐武田一族』の中で「諏訪家の継承は信玄の一方で便宜的な処置であり、諏訪氏側では認知されなかった・・・諏訪氏の通字である〝頼〟を付けて、その跡目として誇示したものであろうが、その裏付けとなるような儀式は見られず、〝頼〟字も下の方に使用されており、あえて勝頼を諏訪城主ないし諏訪郡代としなかった点にも、その便宜性が読み取れる」とある。

領国維持の困難さを察知して、1581年勝頼は館を躑躅ヶ崎から新府に移すため、真田昌幸に普請を命じてる。なぜこの場所(現韮崎市)を選んだのか。この事は笹本正治氏が平成11年11月に韮崎市で開催された≪戦国の浪漫 新府城ーふるさとの城を語ろう≫の中の『武田勝頼と新府城』で話されている。これが一番的を得ている説だと思われるので、そのまま抜粋する事とする。「甲斐国に限った場合、ここは西に偏りすぎているが、当時の武田領国(甲斐・信濃・駿河・西上野)から見れば、ここの方が躑躅ヶ崎よりはるかに領域の中心に位置する。新府から北西に進めば諏訪郡で、そこから高遠を南下すれば伊那谷を通って遠江や三河に進める。諏訪から北西に進めば信濃府中に至る。また新府をそのまま北上したら信濃佐久郡に簡単に出られ、更に上野へと進む事が出来る。一方富士川沿いに南に向かうと江尻に出られ、駿府につながる。このように新府は領域を全部カバー出来る位置だったのです。又この城の攻撃される可能性として駿河方面を考えていたと思われる。北側からの攻撃は勝頼の本拠、諏訪で踏ん張るつもりだったようです。又ここ北巨摩郡は武田氏と古くから関係が深かっただけに、武田氏の直轄地のような場所と推定できるので、ここを選んだかもしれません。

同年12月に新府城へ移るが、翌年1月、親族衆の木曽義昌が織田信長と通じて離反し、その討伐に向かった留守にやはり親族衆であった穴山信君が家康に内通し、2月12日には織田信忠が木曽救援の兵を起こして、余勢をもって信濃国伊那郡へ入り、3月2日には高遠城が陥落した。同3日、勝頼は新府城に火を掛けて甲斐国都留郡の岩殿城へむかった。しかし都留郡主の小山田信茂の離反によって、織田軍との挟撃にあい、同11日一族と共に山梨郡田野で自害した。『甲陽軍鑑』では岩殿城は小山田氏の要害としているが、この岩殿城の位置は、武蔵との境目にあたり、甲斐防衛の要となる。国境地帯の守備は武田氏が直接支配していた事から、この城は武田氏が築いた直轄の城と見る。勝頼がこの城を目指して逃げたのは直轄の城と考えるのが自然である。

何故勝頼が短日で打ち取られたのか?この疑問に鴨川達夫氏は『武田信玄と勝頼』の中で「信忠の進撃は、きわめて急なものであった。これを抑えようとして、信長は何度も注意を与えているが、それを振り切るようにして、信忠は甲府まで進んでしまった。この急進撃が、勝頼から応戦の余裕を奪い、組織的な抵抗を許さなかったのだと思う。」と論じている。


 また、平山優氏は『同時代史料からみた武田勝頼の評価』の中で勝頼の滅亡原因を論じてるので、紹介しようと思います。「・・・・甲斐・信濃の異変と、東国の政変を告げる浅間山の噴火は、まさに武田勝頼没落と信長の勝利を告げる天変地異と受け止められた。当時の人々に、浅間山噴火は東国異変の象徴との認識が浸透していたとしたら、武田氏の家臣たちは、もはや天に見放された勝頼を支えようとはしなかったであろう。そして、小笠原信嶺が謀叛を起こし、信濃の崩壊が始まったのは、浅間山噴火が記録された、まさに2月14日当日のことであった。火山の噴火は自然現象であるとはいえ、それは織田軍が信濃に足を踏み入れたまさにその日に起こったのであり、それはあまりにもタイミングがよすぎた。すでに、前年の高天神城陥落の余波で勝頼の求心力は低下しており、さらに織田氏から武田方諸将への調略が開始されていたところへ、木曽氏の謀叛と織田軍の侵攻が開始され、また天皇を始めとする皇族や貴族たちも、勝頼を「東夷」「朝敵」と指弾して、「御敵退散」の祈祷を行っていたため、武田方は動揺していた。それに加えて、実にタイミングよく浅間山が噴火したのであれば、もはや家臣や領民が勝頼を支えようとはしなかったのも頷けよう。信長や織田方の人々が、勝頼を天運に見放されたと述べた背景には、以上のような事情があったと推察される。このように、敵国や周辺諸国の人々が見た勝頼滅亡の原因は、彼の天運が尽き、時節に恵まれなかったことによるとになされていたのであり、同時代の人々の間では、勝頼の「暗遇」や「凡将」ゆえとは認識されていなかったことが確認できよう」と述べられている。

 大久保彦左衛門の『三河物語』によれば、勝頼の首級と対面した信長は、勝頼を「日本にかくれなき弓取り」と評したという。信長は、勝頼を甘く見ておらず、両者の明暗は運によるものと考えていたらしい。


 何故勝頼が裏切られたか・・・この事に関しては上野晴郎氏が『定本武田勝頼』に詳しく述べられているので一部を抜粋して紹介しようと思います。「①勝頼継嗣にあたって、家臣団の内訌、特に武辺を稼いで成りあがってきた士隊将たちと、武田譜代の門葉たちの激突が、信玄の死によって表面化した。②嫡男の義信が殺され、4男の勝頼が跡目をとったことに対する家臣団の宗家への不信感。③家臣団全体が勝頼は陣代という意識を排除できなかった。④信玄の死によって武田一族、親族衆のなかから、より優位な国人領主化の進展をはかろうとした動きが顕著になった。⑤曾根下野守昌世のように、義信事件で不満を持っていたものが、信玄の死と同時に、織田信長などに内応しはじめていたこと。このことは武田家滅亡後穴山・木曽両氏とともに昌世が破格の恩賞に預かり、駿河興国寺城主をそのまま認められたばかりでなく、そのほかに富士川以東の支配を認められたことで解る。この仕置きは昌世がその場で寝返った程度の簡単なものでなく、とにかく長い年月、信長に緊密に連絡し内応していたものであることを示している。等が挙げられる。勝頼は信玄時代の古い体質を捨て、家臣団統率にも新しい側近政治を編み出した。それは、今までの宿老を捨て、内務官僚型の武人の重視という形になって現れ、経済政策を中心に捉えて、軍事力の維持拡大に必要な、租税賦課の強化策をもって臨んだ。」

 また新田次郎氏は『武田信玄』の中で「信玄の死後、武田家が動かなかったのは御親類衆同士の勢力争いがあったようだ。御親類衆の最高実力者は勝頼の従兄弟であり、義兄の穴山信君であった。事実信君は勝頼のことを「四郎殿」と呼び目下のように見ていた。高天神城攻略戦や長篠城奪還作戦も信君が指揮官で、勝頼は本陣にいて、戦の成り行きを見ていただけである。長篠合戦も信君が指揮し、出撃を主張したものと考えられる。この敗戦のきっかけは、御親類衆の率いる部隊が勝手に戦線を離脱したからである。後日、高坂弾正がこの戦いの責任を取らせて信君に切腹させろと勝頼に進言したことが『武田三代軍記』に書いてある。この敗戦により御親類衆の勢力が弱まり、勝頼を中心に団結したのである。」と述べている。結局穴山信君は武田家にあって派閥争いに破れ、武田氏が滅ぶことによって自分の地位の確立を目指したのでは無いだろうか。


 長篠の合戦についても最近研究が進み、色々な事が解ってきた。小川和久氏が『真説・長篠合戦』で詳しく論考されているので簡単に紹介する。「長篠合戦について・・・『改正三河後風土記』では前日の5月20日の天候は五月雨が強く降り続いていたと記されている。狭い水田と、五月雨でぬかるんだ泥田。こんな場所に織田・徳川軍3万8000人が布陣して、鉄砲の三段撃ちは考えられないのである。①に設楽原へ誘い出し、②に陣城の構築を武田軍にきづかれない、③に信長が武田騎馬隊を恐れているというように見せかけた心理戦、この3つが成功して、長篠合戦大勝利になったと思われる。勝頼が長篠合戦の結果を家臣に知らせた書状に「信長が陣城に籠っていたために、味方は利を失った」と信長の陣城に引き付けられて負けたことを認めている。このことは『三州長篠合戦記』にも「二重三重の乾堀を掘り、この上によって土居を築き、木をもって柵をつけた」とあり、信長狭い水田を見下ろせる弾正山の北の端に、乾堀、土居、木柵の3つをもって、陣城を築いて武田騎馬隊を迎え撃ったのである。昨今の発掘調査でこのことを裏付けする遺構が確認されている。『信長公記』にも鉄砲の三段撃ちの記載は見あたらない。」

藤本正行氏も『信長の戦国軍事学』の中で鉄砲の三段撃ちを否定している。


武田信勝(武王丸・太郎)1566-1582

武田勝頼の長子。母は織田信長の養女遠山氏。母の実父は美濃苗木城主遠山勘太郎で織田信長の妹婿にあたり、幼いときから信長が養女として育てたといわれる。信長の姪。

1579年11月元服。信勝を元服させ前面に押し出すことで、織田信長との和睦交渉を進展させようとした。又翌年に所見のある「御隠居様」を勝頼と捉えれば、元服と同時に家督を譲られた可能性もある。

1582年父と共に甲斐国都留郡田野で自害した。


武田勝三(勝親・治左衛門)1580-1682

武田勝頼の3子という。勝頼死後西摂津の池田氏を頼り、尼崎に住んだという。尼崎の善念寺に墓が有る。現住職の武田氏は勝三の子孫を称している。



本光信継庵主1582-1655

『高野山引導院過去帳』によれば勝頼の4子という。母は高畑氏。


仁科信盛(仁科五郎・盛信・薩摩守)1557-1582

晴信の5子。母は油川信守の女。1561年信濃安曇郡の名族仁科家に入り、親族衆100騎持ちとなる。森城へ入り信越国境警護の任を負い、又北陸方面に対する軍事・外交を担当することとなった。

1581年信濃高遠城主となる。又盛信から信盛と改名し、武田一門としてより高い席次を与えられたようだ。

1582年2月織田信長の甲州征伐のとき攻め落とされて戦死。室は武田信繁の女、死後武田信廉の女。



仁科信正(勝五郎・武田信基・播磨介・幡竜軒)1574-?

信盛の長子。母は武田信廉の女という。1582年信濃高遠城落城前に逃れ、上総庁南城主武田豊信を頼った。

1590年徳川家康に庁南城を攻められ、城主豊信は自刃、信正は逃れ下永吉村に潜伏した。

1615年従兄の武田信道が伊豆大島へ配流されたときに讃岐に隠遁し、幡竜軒と号し、万治年間(1658-61)に病死した。



油川信貞(源兵衛)1577-1626

信盛の2子。幼児で油川四郎左衛門信次の家に預けられ、武田氏滅亡後信次の子として徳川家康に見出された。関ヶ原役では家康の旗下として働き、大坂冬の陣では伏見城番を務めた。

1625年上総、武蔵国内で350石。その後下総国内で200石の加増を受けた。



葛山信貞(六郎・十郎)1559?-1582

晴信の6子。同母の兄信盛は1557年生まれ、妹の松は1561年生まれ、弟の信清は1563年生まれと考えられ、これから見れば1559年前後の生まれと推察される。

幼くして駿河の名家葛山家を継ぎ葛山氏を称した。継いだ時期は1572年5月以前との考えが有力である。

120騎。室は葛山氏元の女。

『甲斐国誌』では天正10年3月15日に小山田信茂、武田信光とともに甲府善光寺へ出向いて殺されたとある。信茂、信光の室は葛山播磨守信貞の女である。しかし『葛山家譜』では天正10年3月に信州で戦死、17歳とある。



武田信清(大勝・安田三郎・玄竜・信国・大膳大夫)1563-1642

晴信の7子。母は禰津甚平の女。室は甲府長延寺実了の女。

5歳の時出家し玄竜と称したが1579年兄勝頼の命で還俗、安田家を再興し安田三郎と名乗り、信濃国海野で700貫を得た。

1582年勝頼滅亡後高野山無量院に匿われ名を信国と改めた。のち姉の上杉景勝夫人(菊姫)を頼って越後国へ赴き、3千石を与えられ武田三郎と称した。

後上杉景勝が会津に移ると3300石を領したが、関ヶ原の戦後米沢国替えに従い1000石を領した。

1614年大久保長安の事件のおり、陰謀の嫌疑を受け幕府に召喚され、本多正信に詰問されたが、その事実は無く米沢に帰った。



武田勝信(喜三郎・大隈守・大蔵)1607-1680

信清の子。1624年藩主上杉定勝の一字を賜り、勝信と改めた。勝信には子供が無く藩主上杉綱憲の計らいで本庄重長の2子牛松が500石で家督を継ぎ、武田主馬信秀と称した。名跡は残ったが、血筋は勝信で途絶えた。

以後信安-信全-信久-信福-信順-信明-信篤-大勝-信一-茂-昌信と続いた。


武田源氏宗家一覧


 1.武田義清1075-1149 源義光2子 常陸那珂郡武田郷

 2.逸見清光1110-1168 武田義清長子 甲斐逸見庄

 3.武田信義1142-1200 逸見清光2子 

 4.一条忠頼  ?-1184 武田信義長子 源頼朝に暗殺される

 5.武田有義 ?-1200?武田信義3子 平重盛に仕える

 6.武田信光1162-1248 武田信義4子 安芸、甲斐守護。源頼朝側近

 7.武田信政 ? -1265 武田信光3子 安芸守護

 8.武田信時  ?-1289 武田信政長子 安芸守護

 9.武田時綱   ?   武田信時長子 安芸守護

10.武田信宗?-1330? 武田信時長子 安芸守護

11.武田信武 ?-1359 武田信宗長子 安芸、甲斐、若狭守護。九州探題

12.武田信成 ?-1394 武田信武長子 甲斐守護

13.武田信春 ?-1413 武田信成長子 甲斐守護。逸見氏と戦い戦死

14.武田信満 ?-1417 武田信春長子 甲斐守護。上杉憲宗に攻められ自害

15.武田信元?-1419,20武田信春2子 甲斐守護。穴山満春

16.武田伊豆千代丸?-1433?武田信長長子 甲斐守護。跡部氏と戦い戦死か?

17.武田信重 ?-1450 武田信満長子 甲斐守護。穴山氏に攻められ自害

18.武田信守 ?-1455 武田信重長子 甲斐守護

19.武田信昌1447-1505 武田信守長子 甲斐守護。晩年子の信縄と争う

20.武田信縄 ?-1507 武田信昌長子 甲斐守護。弟信恵と家督を争った

21.武田信虎1494-1574 武田信縄長子 甲斐守護。叔父信恵を討つ

22.武田晴信1521-1573 武田信虎2子 甲斐、信濃守護。父信虎追放

23.武田勝頼1546-1582 武田晴信4子 織田信長に攻められ自害

24.武田信勝1566-1582 武田勝頼長子 織田信長に攻められ自害

25.武田信治1572-1587 穴山信君長子 母は武田晴信娘

26.武田信吉1583-1603 徳川家康5子 母は秋山虎康娘。常陸水戸25万石

27.武田信正1600-1675 武田信道長子 八丈島流罪

28.武田信興1672-1738 武田信生長子 母は内藤忠興娘。高家500石

29.武田信安1707-1788 武田信興長子 長子信用夭折し、血統絶える

30.武田信明1753-1788 柳沢信鴻3子 従五位下安芸守

31.武田護信1779-1858 武田信明長子 

32.武田信典1776-1860 松平頼亮3子(水戸系松平)従四位上大膳大夫

33.武田信之1804-1868 柳沢保光7子 左京大夫

34.武田崇信1827- ?  武田信典長子 信之実子俊順は柳生家1万2千石相続

35.武田信任        遠山景高の子 妻は崇信の娘

36.武田要子        武田信任の娘 信保の妻

37.武田信保        柳沢保申3子

38.武田昌信        武田信保長子 母は武田要子

39.武田邦信1948-    武田昌信の子

    武田英信       武田邦信の子


武田氏甲斐守護家一覧


 1.武田信光1162-1248 武田信義4子 安芸守護兼任

 2.一条信長  ?    武田信光4子 『吾妻鏡』では1241年まで登場

 3.武田政綱  ?    武田信政2子 1241年から1263年まで鎌倉出仕

 4.一条時信  ?-1321 一条信経長子 『尊卑分脈』に甲斐守護とある

 5.岩崎盛信  ?    岩崎政嗣長子 1352年の合戦では武田信武に従軍

 6.武田政義 ?-1343 武田貞信長子 北朝方と戦い戦死

 7.武田信武 ?-1359 武田信宗長子 安芸、若狭守護兼任。九州探題

 8.武田信成 ?-1394 武田信武長子

 9.武田信春 ?-1413 武田信成長子 逸見氏と戦い戦死

10.武田信満 ?-1417 武田信春長子 上杉憲宗に攻められ自害

11.武田信元?-1419,20武田信春2子 初め穴山満春

12.武田伊豆千代丸?-1433?武田信長長子 信元甥、跡部氏と戦い戦死か?

13.武田信重 ?-1450 武田信満長子 穴山氏に攻められ自害

14.武田信守 ?-1455 武田信重長子

15.武田信昌1447-1505 武田信守長子 子の信縄と争う

16.武田信縄 ?-1507 武田信昌長子 弟信恵と家督を争う

17.武田信虎1494-1574 武田信縄長子 叔父信恵と家督を争い滅ぼす

18.武田晴信1521-1573 武田信虎2子 信濃守護兼任。父信虎追放、嫡子義信廃絶



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