1月21日(木曜日くもり


武田義統 1526?-1567

(彦二郎・治部少輔・伊豆守・大膳大夫・元栄・義元・信統)

武田信豊長子。母は六角定頼の女。将軍義晴より編諱を受けた。

1548年3月24日、将軍足利義輝の妹を室に迎えた。1556年頃からの信豊・義統父子の家督相続問題のすえ、義統が若狭国守護となった。1561年6月国吉城主粟屋勝久、砕導城主逸見昌経の反乱が起こり、越前朝倉氏の救援をもってこれを制圧した。1566年8月姉婿義統を頼って足利義秋が若狭へ入国したが、義統・元明父子の不和で入洛は果たせず、越前へ向かった。同年逸見氏は元明を擁立し粟屋勝久と再び叛乱を起こした。義統は再び朝倉氏に援軍を頼み、勝久の居城を包囲させ、自らは逸見氏を攻めこれを破った。この時義統は水軍を編成して逸見氏に対抗した。

1567年4月8日死去。11月9日に死去したとも伝えられる。1570年6月に甲斐の武田信玄が朝倉義景に宛てた書状に「同名大膳大夫他界」というものがある。又「高野山過去帳」によれば1580年4月8日を没日とする記述がある。


武田信由(三郎・上総介)

武田信豊の2子。


武田信景 ? -1586 (五郎・右衛門佐・元実)

武田信豊の3子。母は六角定頼の女。

永禄年間(1558-69年)に三方郡鈴ケ岳城を築いた武田五郎か?

1566年足利義昭を支援するため兄義統の命で足利家臣となり、義昭の近臣となった。1576年備後国鞆に下向した義昭に同行した。

1586年1月23日、肥後国高森に籠もり島津勢と戦って城主高森惟直と共に戦死した武田大和守元実は信景では無いかと思われる。『近世大名の領国支配の構造』(花岡興輝著)で武田元実の先祖附で「大和守、若狭国宮川庄大谷城主 永禄年間に肥後国河尻に移り住む」と有るのだが、信方と混同してるのか?

「肥後に下り阿蘇高森に居住した」という文献もある。

茶道肥後古流(古市流)11代家本武田元熈は元実の末裔だという。12代家元は武田元二。古市流は10代目の後継者がおらず、武田家が継ぎ、今は武田家と小堀家が肥後古流の作法を受け継いでいる。

現在、知人の熊本表千家師範に肥後古流武田家について調査を依頼中である。


武田信方(彦五郎)

武田信豊の4子。1552年3月武田氏元被官粟屋右馬允が近江から若狭へ攻め込んだが、これを近江に退却させた。1556年叔父信高没後、信保山城に入り永禄年間(1558-69年)に城を整備した。信高の跡職を継ぎ、1557年には信豊の奉公人に列している。信豊隠居後は義統と同等の権限を持ち、軍事面での全権を握り、義統卒後は若狭武田氏を代表する実力者となった。

『仏国寺本武田系図』は永禄年中に備後へ没落したと伝えるが、少なくとも1572年までは若狭国に在国し、天正初年丹羽長秀入部以後に没落したと推察される。

1567年義統に代わって足利義昭からの上洛要請を受けたが、これを拒否している。

1570年6月6日、織田信長は彦九郎信方に対し、来る6月28日の近江国北部への軍事行動に際し、足利義昭「御動座」があるため参陣を督促している(尊経国閣文庫所蔵文書)。同年信長の越前攻めに際しては若狭で反信長勢力を結成し、山縣孫三郎の籠もるガラガラ城を落城させ最後までその中心として抵抗したが、1573年朝倉氏滅亡後若狭へ入部した丹羽長秀によって新保山城を追われた。

1582年甲斐武田氏滅亡時に生け捕えて殺害されたという伝聞が奈良興福寺の『多聞院日記』に記されている。また備後に下り足利義昭に仕え、1585年又は1586年病死したともいう。


次回は武田元明と若狭守護家一覧ですグッド!


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