1月14日(木曜日晴れくもり


武田信豊 1514ー ? (彦二郎・治部少輔・伊豆守・大膳大夫・紹真)

武田元光の子。室は六角定頼の女。

1538年の家督相続をめぐる粟屋元隆の反乱制圧以後、若狭国守護となったと考えられる。1542年3月17日細川晴元に合力し、河内太平寺に三好範長を攻めるが、粟屋右京亮を敗死させた。

1551年には丹後国加佐郡の牢人衆が蜂起し、これに出陣している。さらに翌年3月21日には粟屋右馬充が近江から若狭街道を攻め入り、吉田村を焼き払うなどしたため、信豊は武田信方を遣わし、これを追い払った。

1554年細川晴元から助力を要請され、逸見昌経や粟屋氏等を丹後、丹波へ派遣し、晴元方の丹波勢に合力して京都の三好党と戦わせている。一方、1556年頃から信豊と義統父子が不和となり、信豊は難を逃れ近江に逃げていたが、1558年には若狭入国を果たすため、義統軍と戦っている。しかし1561年には義統が信豊に料所を与えて和議が成立し帰国した。この頃入道し紹真と号した。

1568年8月、孫の元明が越前に去った後も後瀬山城に居たようで、翌年連歌師里村紹邑が訪れ信豊に会っている。


武田信高 ? -1556(彦五郎・宮内少輔・信重・宮川殿)

武田元光の子。室は細川藤孝の姉(三淵晴員の女)。娘は朝倉義景の母。

宮川保、松永保を領した。兄信豊の奉公人として活躍、重臣粟屋元隆の叛乱を押さえた。天文年間に新保山城を築城。1556年信豊、義統親子が争った際信豊方で活躍したが、その内乱の最中に卒した。戦死とも病死ともいう。


雄長老 1547ー1602(英甫永雄・武牢・小渓・芳洲)

武田信高の子。母は細川藤孝の姉宮川尼。

建仁寺十如院住職。1586年建仁寺292世、1594年には南禅寺の住職にもなった。武田氏滅亡後細川氏を頼り、一族を肥後熊本へ移したという。近世狂歌の祖と伝えられている。


武田信実 ? -1555?(刑部少輔)

武田元光の子。安芸武田光和没後、光和の弟伴下野守と家督を争う。

1541年大内氏の命を受けた毛利氏に攻められ、安芸銀山城は落城、信実は出雲国に出奔した。のちに若狭武田家を頼ったと伝えられる。


武田元慶(中務)

武田元光の子。


山県盛信(源三郎・下野守)

武田元光の子。山県石見守頼冬の跡を継ぐ。『甲斐信濃源氏綱要』では母は佐々木伊予守高成女とある。若狭太郎荘城主。


山県元盛 1533ー ? (式部大夫)

山県盛信の子。武田元明より一字賜る。『甲斐信濃源氏綱要』では母は佐々木氏高女とある。室は沼田勘解由左衛門清延の女。のちに細川藤孝に属し、丹後で卒した。


山県元之(源七郎・太郎助・政信)

山県盛信の2子。武田元明より一字賜る。


山県政親 1555ー ? (源三郎)

山県元盛の子。


内藤勝高(内蔵助・政信)

武田元光の子。内藤を称して武田家の家老となる。和歌を好みて宗祇を師とする。


内藤勝行(筑前守・重政)

内藤勝高の子。若狭国天ヶ城城主。1570年織田信長に服し丹羽長秀に属して各地に戦う。1575年には信長軍の水軍として越前に転戦した。


内藤政高(筑前守)

内藤勝行の子。羽柴秀吉が若狭国を収めた時、浪人となる。


内藤長縄 1552ー1596(大蔵・梶理兵衛)

内藤政高の子というが、生年から考えるに弟か?丹羽長秀に属した。


内藤長教 1589ー1659(伝左衛門)

内藤長縄の子。1614年徳川家康に属し、大坂両陣に従う。戦後上総国武射郡、下総国香取、海上郡、常陸国真壁郡内にて800石を知行す。



次は武田義統ですグッド!



 

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