11月10日(火曜日くもり雨


昨日、小さな歴史の旅に出たグッド!

地下鉄東山駅を降りて、東に走る人テクテク
四郎勝頼の京都祇園日記-白川17
白川アップを超えて、すぐにコレ
四郎勝頼の京都祇園日記-白川16

坂本龍馬(1836年ー1867年)

お龍(楢崎龍)(1841年ー1906年)

四郎勝頼の京都祇園日記-白川
坂本龍馬、お龍「結婚式場」跡が有るチョキ

この辺りは、青蓮院塔頭金蔵寺が有ったそうですチョキ


『元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。
 龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、1899年(明治32)ごろに聴きとられた、彼女の回想に詳しい。お龍(鞆)は1906年まで生きていました。
 一般には、慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。が、この話は根拠が薄く、他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。
 この地が選ばれたのは、お龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。
 当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。二人はながく別居夫婦だったのです。
 当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟として、ここに建碑します。

歴史地理研究者 中村武生』


ー京都龍馬会ブログより抜粋ー


お龍について、

お龍自身は龍馬の事業や仕事には全く興味が無く、知らされるまで彼の業績を知らずにいた。全てを知るのは明治政府から伝えられたときだったという。

龍馬と同じく土佐藩士だった佐々木高行は、お龍のことを「大変な美人だが、賢婦と言えるかどうかは疑わしい。ただ、悪人でないことは確かである」と評している。



四郎勝頼の京都祇園日記-白川17

白川まで戻り、白川の東側を南下走る人テクテク



四郎勝頼の京都祇園日記-白川15

こんな標識を発見チョキ東へ走る人テク


明智光秀の塚、発見!!

明智光秀

生年は『明智軍記』の享禄元年(1528年)説、『綿孝輯録』の大永6年(1526年)説、また『当代記』の付記による永正12年(1515年)説など複数ある。

四郎勝頼の京都祇園日記-白川11

天正10年(一五八二年)、本能寺にいた主君の織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹薮で農民に襲われて自刃、最後を遂げたと言われる。
家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている。
京都市


と書いてますチョキ
四郎勝頼の京都祇園日記-白川14



四郎勝頼の京都祇園日記-白川12
この中には、明智光秀の木像が安置されている。


四郎勝頼の京都祇園日記-白川13


明智光秀は6月2日、織田信長を本能寺で討ったが、同月13日山崎の合戦で羽柴秀吉と戦い敗れた。
同日深夜、坂本を目指して落ち延びる途中の小栗栖で、落ち武者狩りの百姓・中村長兵衛に竹槍で刺し殺されたとされる。

「される」とするのは、光秀のものとされる首が夏の暑さで著しく腐敗し、本当に光秀かどうか確かめようがなかったからである(土民の槍で致命傷を負ったため、家臣の溝尾庄兵衛に首を打たせ、その首は竹薮に埋められたとも、坂本城又は丹波亀山の谷性寺まで溝尾庄兵衛が持ち帰ったとも)。西教寺と谷性寺の記録によると首は三つ見つかっており、その全てが小柄で顔面の皮が全部剥がされていたという。


と、ここまでが現在まで伝えられてきた有名な明智光秀の最期だが、実は、この話にはまだ続きがある。
小栗栖で農民に襲われ深手を負った明智光秀は家臣に、「首を斬り、知恩院にて灰にせよ、体は田に隠し、人には知られないように」と言い自刃した。
そして、家臣はそれを実行し、明智光秀の首を知恩院へ運ぶ途中、夜が明けてしまったため、その場に首を埋葬し自刃したという。

首を埋葬した場所には近年、小さな祠が建てられた。



京都では、このような小さな歴史の旅がいっぱい出来ます音譜



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