12月10日(木曜日くもり


東京から帰ったよ~チョキ

また歌舞伎町、朝までコースどしたフラフラ・・・ふらふらふらふらふらふら


武田信親(彦太郎・治部少輔) 1462ー1485

武田国信の長子。1480年将軍義尚の御相伴衆となる。

禅に深く帰依し、一休宗純の弟子となっている。

墓は1482年に信親が建立した栖雲寺にある。


武田元信(彦次郎・伊豆守・大膳大夫・従三位・透関斎) ? ー1521

武田国信の2子。若狭守護。細川勝元より一字与えられた。

兄信親が早く死んだため、1490年6月21日、国信の死去後家督を継いだ。若狭守護となるとともに、「丹後ノ守護ヲ兼ヌ」『若狭守護代記』とあり、一時期丹後の守護であったと考えられるとともに、1495年10月17日付で安芸国において白井光胤に安堵状を発給するなど、安芸の守護も兼ねていたと考えられる。

1491年と92年の将軍義稙の六角高頼討伐に従軍したのをはじめ、永正年間(1504-21年)初期には将軍義澄の命を奉じて出陣するなど、終始幕府に忠勤を励んだ。

1502年6月20日、段銭徴収に反対して土一揆が蜂起し、同族中務大輔らが討死した。同年9月幕府相伴衆となる。翌年10月6日、元信は一揆に屈し、段銭を免除した。1505年元信は国信以来の丹後出兵を再開し、細川政元も加勢したが、戦況は武田方に不利で、1507年若狭へ逃げ帰ってる。さらに1517年6月、丹後の内乱で政権を握った一色九郎と同国守護代延永春信らが若狭に侵入し、元信の家臣逸見河内守も丹後勢に加わった。幕府は越前の朝倉孝景らを救援に発向させ、丹後勢を撃退させるとともに、丹後に攻め入り、朝倉勢が倉橋城を陥落させた。この結果元信は丹後国加佐郡を領した。一方貴族文化への志向が強く、三条西実隆をはじめ、飛鳥井雅康や連歌師宗祇・宗長らと親交があった。また騎謝に巧みで、武家故実書の作成にもきわめて意欲的であった。

1519年得度、透関斎と号した。


次回は武田元光ですグッド!






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