10月26日(月曜日雨


武田信賢 (治部少輔・大膳大夫・宗武) 1420-1471

安芸武田信繁2子。母は甲斐武田信春の娘。

室町時代初期の安芸武田氏は同国三郡の分郡守護であったが1440年兄信栄が一色義貫討伐の功で若狭守護職を拝領。同年7月23日に没した信栄のあとを継ぎ将軍義教から厳島社領安芸国佐伯郡を賜ったが、1441年3月厳島神官などと合戦に及び、結局佐伯郡を厳島に返還した。同年初めて若狭に入部し、青井山に城を築き、麓に館を構えた。同年6月24日、將軍義教が赤松満祐に殺されると、信賢は赤松氏追討のため播磨に向かった。一方同年9月、若狭では土一揆が蜂起して守護代を追い出す事態となり、これに対して信賢は、吉川経信らを率いて若狭へ下向した。幕府も奉公衆を発向させ、11月に若狭を平定した。

信賢は、前守護一色氏残党の蜂起を鎮圧し、1444年国中半済を実施するなど主として若狭支配の確立に努め、安芸の分郡経営は父信繁が在国して行った。同年本国安芸から若狭に国人を移す。

1453年にも牢人らが蜂起し、そのためか、翌年に「一国平均徳政」を施行した。しかし、幕府から若狭の寺社本所領の預所職を与えられ、1455年5月には商船を明国に遣わすほどの勢力を持っており、1462年5月には、將軍義政の命に背いた畠山義就を畠山政長らとともに河内岳山城で破った。

1457年将軍義政から安芸国佐伯郡を再度賜り、備後・安芸の御家人と共に佐伯郡桜尾城を攻めたが、周防の大内教弘の為に破れた。応仁・文明の乱には東軍に属し、1469年には西軍の一色義直の領国丹後国を賜り、家臣達を在陣させた。乱最中の1471年6月2日病死。家督は弟国信が継いだが、子息の有無は不明。文芸に長じ、京都の自邸で月次和歌会をしばしば催していたことが『草根集』に見える。


武田信恒(右衛門大夫)

信賢の子と伝える。安芸国佐東郡国重に拠って国重城を築いた。


国重信正(源四郎) ? -1550

武田信恒の子。在名により国重氏を称し、毛利氏に属した。


国重就正(正信)

信正の子。毛利氏に仕える。



次回は武田国信ですグッド!


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