9月16日(水曜日晴れ


環状線野田駅を降りて走る人

四郎勝頼の京都祇園日記-野田城址

前に歩いてた、ヒップラインの綺麗なお姉さんに着いて行ったら・・・走る人

「野田城跡」の石碑が有った~ヾ(@^▽^@)ノウワーイ しかしエエケツしてたなぁ


お尻の先に城跡が有った~о(ж>▽<)y ☆ウレシイ


四郎勝頼の京都祇園日記-野田城址2


四郎勝頼の京都祇園日記-野田城址3

【野田城】
享禄4年(1531年)、細川高国三好元長が抗争していた時(中嶋の戦い)に、細川高国と同盟関係にあった浦上村宗がこの地と福島の地に陣取って築城したとされるのが文献上(細川両家記)の初見である。

元亀元年(1570年)、畿内での勢力回復を図る三好三人衆は、野田城を増築、籠城し、それに呼応した石山本願寺織田家打倒の武装決起をする。当時の野田城には8千人の兵がいて、広い城地を占めていたとされるが、現在では石碑がひっそりと建てられているだけである。

天正4年(1576年)、織田信長の猛攻により野田城は落城した。その後野田城、福島城は織田方の手に渡り第一次木津川口の戦い第二次木津川口の戦いでは重要陣地となっていたようである。

大坂役では再利用されたらしく、大坂の役の野田・福島の戦いで、『西成軍史』によると下福島の五分一に三重の柵と櫓を造り大野治胤の兵800を配置し、上福島にも砦を設け、宮島兼与の兵2,500で守備し、野田にあった新家の船倉を守備していたという。

野田城がどの程度の城郭であったのか現在も不明な点が多い。城跡は都市化され、築城当時とは大きく地形が変化しているからである。