9月14日(月曜日晴れ


京阪浜大津駅に貼ってたグッド!

『大津線沿線 戦国時代城跡めぐり』イイ響きや~チョキ
四郎勝頼の京都祇園日記-城跡8


四郎勝頼の京都祇園日記-城跡7

『壺笠山城』

織田信長と対峙した朝倉・浅井連合軍が拠った城址で、近江から京の一乗寺に通じる白鳥越の道を押える位置にある壷笠山山上に構えられた。

山道を歩いたり、迷子にもなる可能性もありーの(゚ー゚;ウ、ウン勝頼無理!!


四郎勝頼の京都祇園日記-城跡6

『坂本城』

琵琶湖の南湖西側にあり、大津市の北郊に位置する。西側には比叡山の山脈があり、東側は琵琶湖に面していることから、天然の要害を具えた地であった。

1571年(元亀2年)、比叡山焼き討ちの後、明智光秀に近江国滋賀郡が与えられ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして築城した。宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』にて豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記している。

現在城郭の大半は宅地化され、推定地の中央には国道161号が貫通している。

『フロイス日本史』全巻揃って持ってるもんねチョキ

琵琶湖大渇水で坂本城の石垣や茶器が出て来た時、見に行ったもんねグッド!




四郎勝頼の京都祇園日記-城跡4

『大津城』

現在の大津市浜大津JR大津駅周辺一帯にあった水城で、本丸は、現在の琵琶湖大津港桟橋付近にあたる。

関が原戦後に廃城となり、天守などが膳所城や彦根城に移築されたと伝えられる。彦根城の天守がかつての大津城天守の用材を転用して建てられている可能性が、昭和32年(1957年)に行われた彦根城天守解体修理の際に符号、墨書きが見つかったことを根拠に示されている。これにより大津城の天守は望楼型の4重5階であったと考えられている。

石碑とかは見に行ったよんグッド!




四郎勝頼の京都祇園日記-城跡
『瀬田城』

瀬田城は要衝瀬田の唐橋を掌握する山岡氏の居城。山岡氏はもともと甲賀郡毛枚(もびら)の土豪であったが、建武年間に瀬田に移ったと伝える。交通の要衝瀬田橋を抱えた山岡氏は、幕府にも大きな影響力を持った。
織田信長に仕えた山岡景隆は信長から信頼され、引き続き瀬田橋の管理を任された。城内には信長が安土と京を往来する際の専用宿舎として御茶屋が建てられた。
本能寺の変で信長が横死すると景隆は光秀から勧誘されるが、「信長公の御厚恩浅からず」として城と橋を焼き払い、甲賀山中へと退いた。

その後、景隆は秀吉と敵対して所領を失ったため、瀬田城は焼け落ちたまま廃城になった。

城跡に料亭「臨湖庵」があり、門前に石碑が立ってたが、現在はマンションへと変わった。

前は通った事有るけど・・・・(;^_^A


この城跡巡りで行った事有るの、平な所ばっかりやん(^▽^;)ア、アハハ




四郎勝頼の京都祇園日記-城跡2

『山科本願寺』

京都市山科区にあった浄土真宗寺院本願寺8世の蓮如により、文明15年8月22日1483年9月23日)完成・建立。

周囲には堀と土塁を築いて、寺内町を形成していた。天文元年8月24日1532年9月23日)、六角氏と法華宗徒により焼き討ちされた。

現在、跡地には本願寺派真宗大谷派山科別院が建っており、南殿跡が大谷派の光照寺に、土塁跡が山科中央公園にある。南殿跡と土塁跡は2002年、国の跡に指定されている。

近いのに行った事無いぞ~・・今度行こうっとチョキ


四郎勝頼の京都祇園日記-城跡3

『膳所城』

膳所城は大津市街の東部に位置し、相模川河口付近にあった膳所崎と呼ばれる琵琶湖に突き出た土地に築かれた水城であり、日本三大湖城(松江城(島根県松江市)、膳所城、高島城(長野県諏訪市) )の一つに数えられ、また大津城坂本城瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」の一つである。陸続きの部分に三の丸を配し、二の丸・北の丸・本丸が琵琶湖に突出する梯郭式の縄張りであった。本丸には4重4階の天守が上げられ、水面に映える姿は里謡に「瀬田の唐橋からねぎぼし、水に浮かぶは膳所の城」と謡われていた。

徳川家康は慶長6年(1601年)東海道の押さえとして、大津城を廃し膳所崎に城を築かせた。膳所城は江戸城、大坂城、名古屋城、福知山城など天下普請として江戸幕府が諸大名に号令し築いた城の第1号である。縄張りは城造りの名手と言われた藤堂高虎に計画させた。湖の中に石垣を築き、本丸西隅に4重4階の天守が築かれた。家康がこの地を選んだ理由として、昔より「瀬田の唐橋を征するものは天下を征する」と言われた瀬田の唐橋に近い場所であったからであると言われる。

築城された年に大津城主戸田一西を3万石で入城させここに膳所藩が成立した。以後、譜代大名の居城となった。

現在は完全に陸続きとなった本丸跡は「膳所城跡公園」として整備され、石垣がわずかに残っているほか、門が模擬再建されている。城門は膳所神社、篠津神社、鞭崎神社に現存しており、それぞれ国の重要文化財に指定されている。

膳所城址公園は桜桜の名所なので、いっぱいカメラ撮ったよグッド!



四郎勝頼の京都祇園日記-城跡5
『宇佐山城』

元亀元年(1570年)、朝倉氏の南進に備えるべく、琵琶湖と北国街道の押さえを意図する織田信長に命じられた森可成によって、近江国滋賀郡に築かれた。

同年、摂津国で勃発した野田城・福島城の戦いで織田軍主力が投入されている中、浅井・朝倉連合軍は信長の背後を突くべく進軍を開始。城主・森可成は近江に居た野府城主・織田信治青地茂綱らと共に交通の要所である坂本を先に占領して街道を封鎖して連合軍の進軍妨害を試みる。そして9月16日に緒戦においては連合軍を撃退する。しかし本願寺顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わり、9月20日にさらに数の膨らんだ連合軍の侵攻で先鋒の朝倉景鏡を押し返すなど健闘を見せるが浅井対馬・玄蕃の2千に側面から攻撃を仕掛けられ、さらに朝倉中務、山崎吉家阿波賀三郎の隊に加え浅井長政本隊もこれに加わったためついに崩れ森可成、織田信治、青地茂綱の3人は討ち死にする。

その後、この地を領した明智光秀が入城するも、坂本城を築いて移ったため廃城となった。

この城も山歩きなので、勝頼は無理!!


勝頼は平城専門やなぁ(゚ー゚;ウ、ウン

これからは、〝桜と城〟と言うテーマで廻ろうかなぁ走る人

今年の〝桜と城〟は、長浜城、彦根城、安土城址だったなぁチョキ