8月17日(月曜日晴れ


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日記も書いた事無いのに、良く続いたよごちそうさまパチごちそうさまパチごちそうさまパチ


武田信実(刑部少輔) ? -1555?

若狭武田元光2子。光和没後、光和の弟伴下野守の子信重と家督を争う。

1541年大内氏の命を受けた毛利氏に攻められ、銀山城は落城、信実は尼子氏家臣牛尾幸清と共に出雲国に出奔した。のちに若狭武田家を頼ったと伝えられる。


伴繁清(下野守) ? -1543

武田光和の弟か?伴氏を称した。1543年毛利元就に滅ぼされる。

1397年8月18日付けの室町将軍家御教書には、武田伴遠江五郎が佐東郡内の厳島神領などを押領しており1404年9月23日の安芸国国人連署契約状には「伴兵部大夫経房」が署名していて、伴の在地名を冠する武士の存在が確かめられている。

繁清は伴城に拠り、一族の伴姓を称したものと思われる。


武田信重(兵部大輔・光広) ? -1541

伴繁清の子。武田光和没後、武田信実と家督を争った。1541年毛利氏に銀山城を攻められ、落城し自害した。

不動院には恵瓊の父と伝わる武田刑部少輔の墓がある。


安国寺恵瓊(竹若丸・遥甫・一任斎・正慶) ? -1600

武田信重の子。銀山城落城時家臣戸坂氏に伴われて城を出、安国寺に逃れた。

1553年竺雲恵心と出会い法弟となった。のち京都に上り東福寺に入った。

1569年安芸国の安国寺住持となり、さらに備後鞆の安国寺の住持を兼ねる。

1579年東福寺塔頭退耕庵の庵主となる。毛利氏の外交僧として有名で、1582年備中高松城水攻めの際、毛利氏と羽柴秀吉の講和を成立させた。1585年伊予国中和気郡2万3千石を与えられる。1587年筑前国内で3千石加増。1589年東福寺竜眼庵の本堂を再建。

文禄・慶長の役には従軍僧として朝鮮に渡っている。

1597年東福寺の通天橋をかけかえる。翌年東福寺第224世の住持となる。1599年建仁寺方丈建立。

1600年の関ヶ原の戦いには毛利氏とともに石田三成に味方し、敗れて同年10月1日、京都六条河原で斬首された。63,4歳と思われる。墓は建仁寺にある。



建仁寺に有る安国寺恵瓊の首塚
四郎勝頼の京都祇園日記-建仁寺4

四郎勝頼の京都祇園日記-建仁寺3



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