8月16日(日曜日晴れ


武田光和(太郎・刑部少輔)1502-1534

武田元繁長子。室は吉川興経の妹。

光和の生年については明らかでないが、周防武田氏に伝わる「錆地三十二間筋兜」(東京国立博物館保管)の鉢裏に「明珍信家花押、永正16年巳卯8月吉日」の切銘が有り、これは光和が18歳の折り、大内・毛利氏と雌雄を決する記念として上州白井住明珍信家に具足一式を制作させたものである。これによって逆算すると文亀2年(1502)生まれとなる。

1524年大内義隆に居城銀山城を攻められるが屈せず、1527年にも攻められる。

1533年熊谷信直の籠もる高松城を攻めた。

出雲の尼子氏と結んで大内氏に抵抗し、そのため銀山城はしばしば大内氏の来攻を受けた。1528年9月から1534年に至る7年間に大内義隆と21回に及ぶ対戦を記録しているが、ついに決着を見ることは出来なかった。

光和の死後、武田家の老臣品川氏と香川・己斐両氏は対立し、品川氏が香川氏の居城八木城を攻めている。これはおそらく信実派と繁清・信重派とが争ったと考えられる。『日本史総覧』では1540年6月9日卒とある。


武田小三郎(刑部少輔・宗慶)1524-1597

武田光和の3子。室は安国寺恵瓊の女と伝えるが、恵瓊より年上の為事実なら後妻か?1541年銀山城落城後、八木城主香川光景に匿われ、吉川氏を通じて毛利元就に保護を頼んだ。のち元就の側近となり、1555年厳島に陶晴賢を襲撃した際には元就の身辺にあって活躍した。

周防の欽明寺に光和の供養塔がある。「営五十回忌法要 第三子 刑部少輔武田小三郎」「天正癸未歳三月八日 欽明寺住職四世日秀上人施行」とある。

小三郎の子孫は代々毛利氏に仕え、主に幕末に活躍した。

勝海舟に望まれ1864年海軍繰練所教授となり、海舟の片腕として活躍した武田祐治(号路遊)、その子武田為十郎(号松山)は1863年三条実美ら七卿の長州落ちの際、特に請われてその護衛の任にあたり、さらに孝明天皇の加茂行幸に供奉した。

『学園創設180周年呉武田学園』に収められている。「周防武田氏系図」では小三郎の子光信は大坂陣で豊臣秀頼と共に57歳で戦死してる事になっているが、毛利氏の家臣が豊臣方に加担する事はあり得ず不思議な事である。


次は武田信実と安国寺恵瓊ですグッド!