5月2日(土曜日晴れ


 何故勝頼が短日で打ち取られたのか?この疑問に鴨川達夫氏は『武田信玄と勝頼』の中で「信忠の進撃は、きわめて急なものであった。これを抑えようとして、信長は何度も注意を与えているが、それを振り切るようにして、信忠は甲府まで進んでしまった。この急進撃が、勝頼から応戦の余裕を奪い、組織的な抵抗を許さなかったのだと思う。」と論じている。


 また、平山優氏は『同時代史料からみた武田勝頼の評価』の中で勝頼の滅亡原因を論じてるので、紹介しようと思います。「・・・・甲斐・信濃の異変と、東国の政変を告げる浅間山の噴火は、まさに武田勝頼没落と信長の勝利を告げる天変地異と受け止められた。当時の人々に、浅間山噴火は東国異変の象徴との認識が浸透していたとしたら、武田氏の家臣たちは、もはや天に見放された勝頼を支えようとはしなかったであろう。そして、小笠原信嶺が謀叛を起こし、信濃の崩壊が始まったのは、浅間山噴火が記録された、まさに2月14日当日のことであった。火山の噴火は自然現象であるとはいえ、それは織田軍が信濃に足を踏み入れたまさにその日に起こったのであり、それはあまりにもタイミングがよすぎた。すでに、前年の高天神城陥落の余波で勝頼の求心力は低下しており、さらに織田氏から武田方諸将への調略が開始されていたところへ、木曽氏の謀叛と織田軍の侵攻が開始され、また天皇を始めとする皇族や貴族たちも、勝頼を「東夷」「朝敵」と指弾して、「御敵退散」の祈祷を行っていたため、武田方は動揺していた。それに加えて、実にタイミングよく浅間山が噴火したのであれば、もはや家臣や領民が勝頼を支えようとはしなかったのも頷けよう。信長や織田方の人々が、勝頼を天運に見放されたと述べた背景には、以上のような事情があったと推察される。このように、敵国や周辺諸国の人々が見た勝頼滅亡の原因は、彼の天運が尽き、時節に恵まれなかったことによるとになされていたのであり、同時代の人々の間では、勝頼の「暗遇」や「凡将」ゆえとは認識されていなかったことが確認できよう」と述べられている。

 大久保彦左衛門の『三河物語』によれば、勝頼の首級と対面した信長は、勝頼を「日本にかくれなき弓取り」と評したという。信長は、勝頼を甘く見ておらず、両者の明暗は運によるものと考えていたらしい。


 何故勝頼が裏切られたか・・・この事に関しては上野晴郎氏が『定本武田勝頼』に詳しく述べられているので一部を抜粋して紹介しようと思います。「①勝頼継嗣にあたって、家臣団の内訌、特に武辺を稼いで成りあがってきた士隊将たちと、武田譜代の門葉たちの激突が、信玄の死によって表面化した。②嫡男の義信が殺され、4男の勝頼が跡目をとったことに対する家臣団の宗家への不信感。③家臣団全体が勝頼は陣代という意識を排除できなかった。④信玄の死によって武田一族、親族衆のなかから、より優位な国人領主化の進展をはかろうとした動きが顕著になった。⑤曾根下野守昌世のように、義信事件で不満を持っていたものが、信玄の死と同時に、織田信長などに内応しはじめていたこと。このことは武田家滅亡後穴山・木曽両氏とともに昌世が破格の恩賞に預かり、駿河興国寺城主をそのまま認められたばかりでなく、そのほかに富士川以東の支配を認められたことで解る。この仕置きは昌世がその場で寝返った程度の簡単なものでなく、とにかく長い年月、信長に緊密に連絡し内応していたものであることを示している。等が挙げられる。勝頼は信玄時代の古い体質を捨て、家臣団統率にも新しい側近政治を編み出した。それは、今までの宿老を捨て、内務官僚型の武人の重視という形になって現れ、経済政策を中心に捉えて、軍事力の維持拡大に必要な、租税賦課の強化策をもって臨んだ。」

 また新田次郎氏は『武田信玄』の中で「信玄の死後、武田家が動かなかったのは御親類衆同士の勢力争いがあったようだ。御親類衆の最高実力者は勝頼の従兄弟であり、義兄の穴山信君であった。事実信君は勝頼のことを「四郎殿」と呼び目下のように見ていた。高天神城攻略戦や長篠城奪還作戦も信君が指揮官で、勝頼は本陣にいて、戦の成り行きを見ていただけである。長篠合戦も信君が指揮し、出撃を主張したものと考えられる。この敗戦のきっかけは、御親類衆の率いる部隊が勝手に戦線を離脱したからである。後日、高坂弾正がこの戦いの責任を取らせて信君に切腹させろと勝頼に進言したことが『武田三代軍記』に書いてある。この敗戦により御親類衆の勢力が弱まり、勝頼を中心に団結したのである。」と述べている。結局穴山信君は武田家にあって派閥争いに破れ、武田氏が滅ぶことによって自分の地位の確立を目指したのでは無いだろうか。


 長篠の合戦についても最近研究が進み、色々な事が解ってきた。小川和久氏が『真説・長篠合戦』で詳しく論考されているので簡単に紹介する。「長篠合戦について・・・『改正三河後風土記』では前日の5月20日の天候は五月雨が強く降り続いていたと記されている。狭い水田と、五月雨でぬかるんだ泥田。こんな場所に織田・徳川軍3万8000人が布陣して、鉄砲の三段撃ちは考えられないのである。①に設楽原へ誘い出し、②に陣城の構築を武田軍にきづかれない、③に信長が武田騎馬隊を恐れているというように見せかけた心理戦、この3つが成功して、長篠合戦大勝利になったと思われる。勝頼が長篠合戦の結果を家臣に知らせた書状に「信長が陣城に籠っていたために、味方は利を失った」と信長の陣城に引き付けられて負けたことを認めている。このことは『三州長篠合戦記』にも「二重三重の乾堀を掘り、この上によって土居を築き、木をもって柵をつけた」とあり、信長狭い水田を見下ろせる弾正山の北の端に、乾堀、土居、木柵の3つをもって、陣城を築いて武田騎馬隊を迎え撃ったのである。昨今の発掘調査でこのことを裏付けする遺構が確認されている。『信長公記』にも鉄砲の三段撃ちの記載は見あたらない。」

藤本正行氏も『信長の戦国軍事学』の中で鉄砲の三段撃ちを否定している。


次回は甲斐武田氏ですグッド!