12月27日(金曜日晴れ


さっき帰って来たので、今日は久し振りに人名辞典ですメモ

昨日の祇園、久々に混んでたねぇ~(;^_^A

タクシー捕まらなかったね(^▽^;)ア、アハハ

しか~し勝頼には契約タクシーが居てるから、携帯したらすぐに来てくれるもんね音譜




大内惟義(大内冠者・相模守・駿河守・武蔵守・修理権大夫)

大内義信の長子。1184年2月、一ノ谷に源義経に従い平家と戦った。同3月伊賀国守護に任じられ、伊勢羽取山に志田義広を追討した。1185年3月美濃国守護を兼務。また1189年の奥州征伐に出陣。1190年の源頼朝上洛及び1195年の再上洛にも随行した。頼朝没後は京都に在住し、京中の治安維持と朝廷との折衝役にあたった。1219年正月27日将軍源実朝が右大臣拝賀のため、鶴岡八幡宮へ御参した際「修理権大夫惟義朝臣」の名が『吾妻鏡』に見える。これ以降惟義の消息は不明。おそらく、この年もしくは翌年に死去したものと思われる。


大内隆信(武蔵二郎)

大内義信の2子。


小野朝信(小野冠者・飯澤五郎)

大内義信の3子。


平賀朝雅(武蔵守・右衛門権佐・朝政) ?-1205

大内義信の4子。母は比企尼(源頼朝の乳母)の3女。執権北条時政の後妻牧の方の娘婿となる。1203年比企氏討伐に加わり、比企氏滅亡、将軍源頼朝幽閉後に京都守護となる。1204年伊賀・伊勢に起こった富田基度・平盛時等の「三日平氏の乱」を平定し、功により伊賀・伊勢両国の守護に任じられた。在京中、畠山重保と不和になり、このことを義母牧の方に訴えたことから、1205年北条時政は畠山重忠・重保父子を討った。同年牧の方が朝雅を将軍に擁立しようとしたが、露顕し、時政は出家して子義時に執権を譲った。義時は在京御家人五条有範・後藤基清・安達親長・佐々木広綱等に命じ、朝雅を京都六角東洞院邸に襲った。朝雅は敗走したが、山内通基によって射殺された。


平賀朝経(四郎二郎)

平賀朝雅の子。母は北条時政の女。


平賀朝村(飛騨守)

平賀朝経の子。


平賀貞経(上総介)

平賀朝村の子。母は城時景の女。


小早川景平(万寸丸・二郎・兵衛尉) ?-1244

大内義信の5子。土肥実平の子、小早川遠平の養子となる。遠平の実子維平が1213年和田氏の乱で和田義盛に味方して没落したので景平の系統が土肥実平の嫡流を継いだとされる。遠平から譲られた安芸国沼田荘を1206年に長子茂平と2子季平に分割譲与し、翌年に将軍源実朝と北条政子の安堵下文を得ている。

              右小早川氏・・・・ブログが続いてたら書きますチョキ


大内惟信(駿河守・帯刀長・左衛門尉)

大内惟義の長子。1205年9月牧氏陰謀事件に連座して失脚した叔父平賀朝雅の跡を継いで伊賀・伊勢両国の守護に任じられ、京都守護職として長らく在京し検非違使なども勤めている。承久の変では京方に属し、1230年12月配流に処せられた。


大内惟親(帯刀長・左衛門尉)

大内惟義の子。


大内惟家(右衛門尉) ?-1205

大内惟義の4子。平賀朝雅が討たれた時自害したという。


大内惟時(木工助・和徳院蔵人)

大内惟信の子。                               右竹内氏


大内惟忠(宣陽門院蔵人・帯刀長・左衛門尉)

大内惟信の2子。


大内家信(宣陽門院蔵人)

大内惟信の3子。


大内惟基(帯刀長・左衛門尉)

大内家信の子。


次回は竹内氏ですチョキ