10月14日(火曜日)
昨日はゆっくりして体調を整えてました。
遠赤マットの上に遠赤の布を敷き、腰と首に遠赤の布を巻き、腰には遠赤のヒーターをあててました(;^_^A
疲れが取れ、腰痛も本格復帰できるかなぁ
今日、夕飯担当(^o^;)ア・・・前回おでん作って一口も食べられなかったので、今日もおでん作って喰ってやる
って事で人名辞典です
源義業(刑部太郎・相模介・左兵衛尉)
源義光の長子。母は甲斐守知家の女。常陸国佐竹郷に住む。室は吉田清幹の女。
佐竹氏・・・・ブログ続いてたら書くよ
武田義清(音光丸・刑部三郎・武田冠者)1075?ー1149?
源義光の2子。母は常陸国住人鹿島清幹の女。1075年4月16日近江国志賀御所で生まれた。常陸国那珂郡武田郷に住み、武田冠者と称した。
1127年頃には吉田神社、鹿島神社領まで侵して常陸の豪族吉田氏をはじめ土着豪族から恐れられ、ついには1130年12月朝廷に訴えられたのである。『長秋記』に「常陸国武田郷主武田冠者義清の子清光濫行の廉により常陸国司に告発され、次いで父義清とともに甲斐国に配流された」とある。甲斐国には頼信、頼義、義光以来の旧領が有り、難なく甲斐へ入国できた。のちに隣接地の青島荘の下司職を命じられて勢力を盛り返し、市河の平塩の丘に館を構えた。
若神子正覚寺の位牌は1145年死没としており、4年の違いがある。1127年父義光の菩提を弔うために正覚寺を建立したという。しかし1127年はまだ常陸の豪族から恐れられていた時期なのだが・・・?。
『小笠原系図』には1082年4月16日に近江国志賀御所で生まれたとある。
平賀盛義(平賀冠者・四郎・刑部四郎・左兵衛尉)
源義光の3子。信濃国佐久郡平賀に住み平賀氏を称する。
平賀氏・逸見氏
次回は平賀氏・逸見氏です