10月2日(木曜日晴れ


疲れがなかなか取れない(ノ_-。)爺になったもんだ(゚ー゚;ウ、ウン


今日は武田源氏人名辞典だよメモ


浅利義成(与一・遠義・義遠)1149ー1221

逸見清光の10子。東八代郡浅利に屋敷を構え、浅利氏を称した。1184年11月15日の年記のある八代郡石橋郷の八幡宮棟札に「与市能成」の名がみえる。

壇ノ浦の戦いでは弓の名手として登場している。1189年の源頼朝の奥州征伐にも武田有義・信光とともに出陣している。この時の恩賞として出羽国比内地方に所領を得た。1190年源頼朝入洛の先陣の随兵として名がみえる。1195年頼朝が石清水八幡宮より奈良入りの際、後方の随兵として名がみえる。このような随兵として『吾妻鏡』に名がみえるのは1189年6月9日から1195年5月20日の間で7回みられる。


浅利知義(浅利太郎)

浅利義成の長子。1221年の承久の乱に幕府の武田信光軍として従軍。戦後近江国内に領地を得た可能性がある。「浅利太郎、近江国山崎、岡等祖」という系図が残っている。1226年5月幕命により結城朝広とともに陸奥国白河で忍寂の一党を追討した。南北朝内乱期には、比内郡に源姓浅利六郎四郎清連が領主として君臨している。武田信玄の時代に活躍した浅利信種は知義の子孫である。


浅利信種(右馬頭・式部少輔・信音) ?-1569

浅利知義から信種までの系譜は不明。1546年90騎を付されて侍大将となり、その後30騎加えられた。上野箕輪城代。1569年北条氏との三増峠合戦で戦死した。


浅利彦次郎

浅利信種の子。父の跡を継ぎ侍大将、120騎。武田家滅亡後徳川家康に仕え、本多忠勝組下。


浅利則頼(与一・貞義か?・範頼) ?-1550

浅利知義~浅利清連~則頼の関係は不明。甲斐から比内に入ったという伝承が多いが、元々の比内浅利氏と思われる。鷲谷豊氏は「統一頭領として則頼に必要なのは、浅利氏初祖甲斐源氏義遠(義成)の威光であり、小集落に分断した一支族の名跡でもなく、甲斐源氏本宗への直近であるという顕示のための出羽国比内への入国説ではないかと考えられるのです(秋田の中世・浅利氏)。」と述べられている。


浅利定頼 ?-1574

浅利則頼の弟。花岡城主。1574年安東氏との戦いで戦死した。


浅利頼重(勘兵衛)

浅利則頼の弟。笹舘城主。


浅利則祐(範祐) ?-1562

浅利則頼の嫡子。安東愛季との戦いの最中、弟勝頼が安東氏に通じたため、出羽国長岡城で自害した。


浅利勝頼(民部・実義) ?-1583

浅利則頼の子。兄則祐死後、比内浅利氏の頭領となり中野城から長岡城へ移った。1566年安東愛季の命により、南部氏の鹿角郡谷内城を攻めた。その後安東氏から離れ、独立を強めた事から1574年安東氏に攻められ、大敗するがその後は勝頼が優勢だったため、愛季は和睦を求め勝頼は檜山城へ赴き、城内で殺害された。


浅利頼平 ?-1598

浅利勝頼の子。勝頼殺害後、津軽為信のもとに逃れ、1590年安東実季に許され比内大館城に戻った。その後豊臣秀吉の朱印状により比内は秋田郡に編入され、秋田(安東)実季より7千3百石を与えられ秋田氏の代官として比内地方を治めた。

1593年浅利氏の秋田氏への軍役未納問題が発生し、この裁定のため大坂へ召喚された。1598年1月急死した。毒殺説も有るが、秋田氏側が有利に進めている時に、毒殺する必要は無いかと思われる。


八代信清(八代余一・与三)

逸見清光の11子。東八代郡八代に屋敷を構え、八代氏を称した。


利見義氏(利見余一)

逸見清光の12子。利見氏を称するも発祥地不明。


利見遠信(余一)

利見義氏の子。


田井長義(田井小太郎)

逸見清光の13子。


逸見道光(修理亮)

逸見清光の14子。


逸見光賢(修理亮)

逸見清光の15子。



次回は逸見清光ですグッド!