9月22日(月曜日晴れくもり晴れ


仕事ネタが書けないので、久しぶりに歴史ですメモグッド!



曾根厳尊(曽根禅師)

逸見清光の8子。甲斐国東八代郡上曽根に屋敷を構え、曽根氏を称した。


曾根遠頼(太郎)

曾根厳尊の子。1190年10月、源頼朝上洛の際の随兵に曾根太郎が見える。


曾根長正(丹波守)

曾根遠頼からの系図は不明。上曽根の日枝神社の1399年の棟札に見える。


曾根経家(四郎右衛門)

日枝神社の1454年の棟札に見える。


曾根弥五郎

『一蓮寺過去帳』では1482年に見える。


曾根下野守

『一蓮寺過去帳』では1485年に見える。



曾根昌長(孫四郎・三河守) ?-1523

武田信昌から〝昌〟の字を与えられた。信縄、信虎の重臣。1520年の栗原氏攻めでは大将の1人を務めた。


曾根縄長(掃部助・三河守) ?-1531

曾根昌長の子。武田信縄から〝縄〟の字を与えられた。1531年栗原氏攻めのため東郡に進軍し、3月16日の合戦で戦死した。


曾根経家(下野守)

日枝神社の1541年の棟札に大檀那として名が見える。上記四郎右衛門経家とは別人であろう。


曾根長元(左衛門尉)

日枝神社の1541年の棟札の大檀那として名が見える。


曾根虎長(中務大輔・掃部助・兵部大輔・三河守)

曾根縄長の子。武田信虎から〝虎〟の字を与えられた。日枝神社の1541年の棟札に大檀那として名が見える。1570年4月までは確認されているが、その後の動向は不明。


曾根昌世(孫次郎・内匠助・右近助・下野守・勝長・長成)

曾根虎長の子。武田信玄の奥近習衆から足軽大将衆となった。その後義信事件により武田家追放され駿河で謹慎していた。その後許されて帰参し、相模三増峠の合戦に参加、奉行衆として武田家の中枢を支えた。しかし義信事件で曾根周防を殺されたことで武田家を深く恨み、その後密かに織田信長・徳川家康と内通していたと言われている。武田勝頼時代は駿河興国寺の守将となってる。

武田家滅亡後、信長は特に昌世に目をかけるが、家康はこれを嫌い、天下掌握後に昌世を追放した。後に蒲生氏郷に仕え、会津城の縄張りを行った。


次回は奈古義行と米倉氏・浅原氏ですグッド!