9月29日(月曜日雨


昨日は国民的スポーツした為ガクリ(〃∇〃)1日家に居ました(^▽^;)ア、アハハ

で、武田源氏人名辞典ですグッド!



奈古義行(奈古十郎・八条院蔵人)

逸見清光の9子。中巨摩郡南湖に土着し、奈古氏を称した。『吾妻鏡』1185年条に、在京して布衣衆として任官随兵していたとみえる。1190年源頼朝入洛の先陣の随兵に名がみえる。


奈古義継(太郎・蔵人)

奈古義行の長子。子の弥太郎信継から米倉氏が出た。


米倉重継(丹後守) ?-1575

弥太郎信継から重継までの系譜は不明。『寛政重修諸家譜』では宗継としてる。武田信玄、勝頼に仕えた。甘利虎泰・昌忠の同心頭から度々の戦功により足軽大将になる。1575年5月、長篠で戦死した。


米倉忠継(五郎兵衛・主計頭)1544-1599

米倉重継の子。折井次昌と共に武川衆の組頭。武田家滅亡後、折井次昌と共に武川衆を指導して徳川家康に帰属せしめた。のち小牧役や信濃上田城攻めに従軍。家康の関東入国後は武蔵鉢形において750石。


米倉信継(六郎右衛門・丹波守)1548-1636

米倉重継の子。徳川家康の関東入国後は相模国足柄郡の内を領す。兄忠継の死後その遺跡を継ぎ、武蔵国鉢形750石を相続し、御使番を勤めた。関ヶ原役、大坂両陣に従軍し、1200石を領した。子永継ー政継と続き、丹波守昌尹の時若年寄となり1万石の大名となった。


鼻和義俊(三郎)

奈古義行の2子。巨摩郡花輪に住み鼻和氏を称した。


浅原行信(三郎・行延)

奈古義行の3子。巨摩郡浅原に住み浅原氏を称した。


浅原頼行(小三郎)

浅原行信の子。


浅原為頼(八郎) ?-1290

浅原行信の子。所領を失い諸国で悪党狼藉を働き、討伐の触れが廻っていた。

1290年子息らと共に内裏(富小路殿)に乱入、伏見天皇の所在を求めたが、天皇は春日殿に、東宮胤仁親王は常盤井殿に難を避けた。やがて守衛の武士に囲まれ清涼殿で自害した。持明院統の伏見天皇を襲ったことから、大覚寺統の亀山法皇が疑われ、三条実盛が捕らえられた。法皇は鎌倉幕府へ誓紙を送り事なきを得た。



次回は浅利義成と浅利氏ですグッド!