8月19日(火曜日くもり


久しぶりに歴史だよ~チョキ

先日、上総武田氏の論文取り寄せてはてなマークはてなマーク∑ヾ( ̄0 ̄;ノエエッの連続でした。

先人達は何を研究してたんだろう?って感じでした(;^_^A


安田義定(安田三郎・遠江守)1134-1194

逸見清光の4子。甲斐国山梨郡湯安田を本拠として安田氏を称した。『吾妻鏡』では武田義清の子とある。これは生年に拠るところが大である。兄の遠光より年上だからである。古浅羽本『武田系図』に「実義清末子。養子也」とあり、さらに『吾妻鏡』建久5年8月19日条に、「武田冠者義清4男」とあるから、実は義清の子で、清光の弟であったらしいことが知られる。

1180年8月駿河波志太山で平家方俣野景久、駿河目代橘遠茂らと戦い、これを破った。同年10月の富士川の戦いでは武田信義とともに平家を破った。

1183年7月源義仲が北陸道から都に攻め上がったとき義定も呼応して上洛、京中の守護を分担し、8月には朝廷から従五位下遠江守に叙任された。義定の上洛は源頼朝の命令とは全く無関係に行われ、義定は義仲の同盟軍の立場にあった。しかし、しだいに義仲から離れ、1184年正月、源範頼・義経とともに義仲を討ち、2月の一の谷の合戦にも加わっている。この合戦では義経とともに搦手に属しているが、義経に従ったのではなく、友軍的存在であった。その戦功は範頼・義経と対等、別個に数えられており、義定の手の者は平経正・師盛を討っている。

義定が頼朝に従属するようになったのは、1185年の平氏滅亡以後とみられ、翌年4月義定は鎌倉に赴き臣礼をとっている。

1191年4月、延暦寺僧徒の強訴を防いでいるが、当時義定は大内(禁裏)守護の任にあった。

1193年11月、永福寺薬師堂供養の際、女房の聴聞所に艶書を投げ込んだ咎で、子の義資は斬られ、義定も謹慎を命じられ、所領を没収され、翌年8月義定自身も攻め滅ぼされた。義定の自刃した場所は放光寺といわれ、一説には小田野城ともいう。

『系図纂要』『保田系図』には義定の3子忠義から3代後に湯浅宗重が出ているが、湯浅の住人藤原宗永の子と考えられるので、後の湯浅党保田氏(紀伊国在田郡保田庄)が清和源氏で有る安田氏に繋げたものであろう。


田中義賢(田中太郎・義輔・義資) ?-1193

安田義定の子。甲斐国山梨郡田中より起こったと考えられる。1185年8月身源頼朝の推薦で、頼朝の知行国越後の国司に任じられた。1189年7月、頼朝の奥州征伐に従い、翌年11月の頼朝上洛にも従う。

1193年11月、永福寺薬師堂供養の際、艶書を女房に付けたため、梶原景時の讒言に遭い、頼朝の命により加藤景廉のため鎌倉で殺害された。『甲斐国志』によれば子の三郎義治は肥後国益城郡味木庄で知行を得たという。 




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